第146回 ゾルゲ事件 日中戦争を扇動 ソ連のスパイとなった朝日新聞記者

昭和天皇の87年

日中戦争を扇動 ソ連のスパイとなった朝日新聞記者

第146回 ゾルゲ事件

 大阪朝日新聞上海特派員の尾崎秀実(ほつみ)が、ソ連共産党中央委員会所属の

ドイツ人スパイ、リヒャルト・ゾルゲに会ったのは1930(昭和5)年5月、満州事変が起きる1年半ほど前である。

場所は上海の中華料理店「冠生園」。

ゾルゲが言った。

 「日本の新聞記者として、集められる限りの内部情報を教えてほしい」

 尾崎は共産主義の信奉者だ。

進んでゾルゲ諜報団に加わり、「オットー」の暗号名を与えられた。

昭和7年に帰国した尾崎は、東京朝日新聞政治部に転属。

上海から東京に拠点を移したゾルゲの右腕となり、諜報活動を本格化する。

新聞記者の肩書を生かし、中国問題の専門家として政界有力者に接近した尾崎は、西園寺家嫡男の公一や朝日出身の風見章、そして近衛文麿の懐に潜り込んだ。

 昭和12年6月に近衛内閣が発足すると、朝日を退社して内閣嘱託となり、近衛のブレーンになる。

日本の内部機密は、ソ連に筒抜けになったといえるだろう。

× × ×

 尾崎は、中国共産党の秘密政治顧問でもあった。

日中戦争にあたり尾崎が果たした役割は、スターリンや毛沢東らの期待をはるかに超えたと言っていい。

コミンテルンの敵である日本と蒋介石政権の共倒れを狙い、さかんに戦争をあおったからだ

盧溝橋事件後、尾崎は次々と雑誌論文を寄稿した。

 「今はたゞ当面の敵を完全に打倒することにのみ死力が尽されてゐるのである。

『局地的解決』も『不拡大方針』も全く意味をなさないことになつてしまつた。

(中略)日支戦争が起り、かつ大規模に発展して行くべき素地は充分存在してゐたのである」

(雑誌「改造」昭和12年10月号)

 「戦に感傷は禁物である。目前日本国民が与へられてゐる唯一の道は戦に勝つといふことだけである。

その他に絶対に行く道はないといふことは間違ひの無いことである。

『前進! 前進!。』その声は絶えず叫び続けられねばなるまい」(同13年5月号)

 この間、尾崎が警戒したのは和平の動きだ。

日本と蒋介石政権が戦争をやめれば、両軍とも銃口を共産党に向けるだろう。

事実、日本が提案した和平条件には防共政策の連携強化が盛り込まれていた。

 このため尾崎は、蒋介石政権を数ある軍閥の一つと見下し、いくら蒋政権が「国民政府」を名乗ろうとも、孫文が創設した国民政府とは「本質的に異なるものを多く持つてゐる」と酷評する(雑誌「中央公論」昭和12年9月号)。

蒋政権の正当性に疑義を投げつけ、和平の交渉相手にはふさわしくないと、各界各層にすり込み続けたのだ。

 尾崎の企みは13年1月に一つの実を結ぶ。

近衛内閣が発した「国民政府を相手とせず」声明である。

尾崎の読み通り、この声明によって日中和平の扉は固く閉ざされた(※1)。

× × ×

 その後も尾崎は、戦争をあおり、あおり、またあおった。

近衛側近の政策研究団体「昭和研究会」にも中心メンバーとして参画。

同会には共産主義志向の知識層が多数集まり、戦時色の強い政策を生み出していく(※2)。

 日中戦争の初期、ドイツ外務省はモスクワ発の情報から、ソ連が日本の軍事的圧力を弱めるため「あらゆる方法で紛争をかきたてている」と綿密に分析し、日中戦争はソ連を利するだけだと日本に警告していた。

これに対し日本は、国内で展開するソ連の工作活動にすら、極めて認識が甘かったと言わざるをえない。

 余談だが、いつの時代も国を滅ぼすのは、自分だけが正しいと思い込んでいる革新主義者たちだ。

伝統や慣習を軽んじ、先人たちの歩みをいとも簡単に否定する彼ら革新主義者が政治を牛耳れば、国は破滅の道へと突き進む。

 彼らにつけ込まれた近衛も、先の大戦の末期になってようやく目が覚める。

近衛は昭和天皇に、満州事変以降の戦争はすべて共産分子が仕組んだものとする意見書(近衛上奏文)を提出し、こう謝罪した(※3)。

 「彼等ノ背後ニ潜メル意図ヲ充分看取スル能(あた)ハザリシハ全ク不明ノ致ス所ニシテ、何トモ申訳ナク深ク責任ヲ感ズル次第デ御座イマス」…

 閑話休題。

尾崎が治安維持法違反容疑で特別高等警察に逮捕され、ゾルゲ諜報団の暗躍が明らかになるのは16年10月以降である(※4)。

 それまでに日本は、日中戦争から足を抜け出せないばかりか、破滅の日米開戦へと導かれていくのだ--。

(社会部編集委員 川瀬弘至 毎週土曜、日曜掲載)

(※1) 中国で蒋介石政権(国民政府)にかわる新政権の樹立を助長し、それと交渉して和平を実現すると表明した近衛声明(第1次)は、尾崎秀実の影響を受けたとされる

(※2) 昭和研究会は一国一党、挙国一致の新体制運動を進めたが、それはファシズムに近いものだった。

昭和15年10月に大政翼賛会ができると、同会も吸収される形で解散した

(※3) 近衛上奏文は昭和20年2月、終戦を模索する昭和天皇が歴代首相ら重臣7人を呼んで意見を聴いた際、ただ一人、即時終戦を唱えた近衛が奉呈したもので、軍部も共産分子が動かしていると指摘し、共産革命の危険性を訴えた

(※4) 尾崎秀実は治安維持法違反、軍機保護法違反、国防保安法で死刑判決を受け、昭和19年11月7日、ゾルゲとともに絞首刑に処された

【参考・引用文献】

○小尾俊人編「現代史資料2-ゾルゲ事件2」(みすず書房)収録の「尾崎秀実訊問調書」

尾崎秀実著「時局と対支認識(雑誌「改造」昭和12年10月号)

○尾崎秀実著「長期抗戦の行方」(雑誌「改造」昭和13年5月号収録)

○尾崎秀実著「南京政府論」(雑誌「中央公論」昭和12年9月号)

○鳥居民著「尾崎秀実の本当の大罪-事変拡大の煽動者」(雑誌「別冊正論」15号収録)

○三宅正樹著「トラウトマン工作の性格と史料-日中戦争のドイツ外交」(日本国際政治学会「日中戦争と国際的対応」収録)

○宮内庁編「昭和天皇実録」33巻掲載の上奏文要旨筆記

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