第147回 疑心暗鬼 日本は「伝染病患者」!?波紋を呼んだ米大統領

昭和天皇の87年

日本は「伝染病患者」!? 波紋を呼んだ米大統領演説

第147回 疑心暗鬼

日中戦争が始まって以来、中国に利権を持つアメリカの対日感情が悪化したのは言うまでもない。

日中が本格衝突した第2次上海事変勃発後の1937(昭和12)年10月5日、米大統領のフランクリン・ルーズベルトはシカゴで演説した。

 「不幸にも世界に無秩序という疫病が広がっているようである。

身体を蝕(むしば)む疫病が広がりだした場合、共同体は、疫病の流行から共同体の健康を守るために病人を隔離することを認めている」

 ルーズベルトは、軍事色を強める日本、ドイツ、イタリアを「伝染病患者」にたとえ、「アメリカは戦争を憎む。

アメリカは平和を望む。それ故、アメリカは平和を追求する試みに積極的に参画する」と、何らかの介入を示唆した。

これが内外に波紋を呼んだ、「隔離演説」である。

 アメリカは当時、甚大な犠牲を強いられた第1次世界大戦への介入を失敗と捉え、孤立主義をとっていた。

不況にあえぐ国内問題の解決を優先し、欧州で独伊の脅威が高まっても介入を避けていた。

しかし「隔離演説」以降、徐々に風向きが変り始める。

× × ×

 昭和天皇は憂慮した。

当時の日本はアメリカから石油のほぼ6割を輸入し、生糸や綿製品を輸出して外貨を稼ぐなど、対米貿易に依存しきっている。

もしもアメリカが禁輸に踏み切れば日本は干上がってしまうだろう。

アメリカが孤立主義を棄てないうちに日中戦争を終結させるしか道はない。

 だが、日中戦争が始まって1年が過ぎても、近衛文麿内閣は混乱と迷走を重ねていた。

 昭和13年6月以降、外務省では宇垣一成が陣頭指揮をとり、蒋介石政権の財政部長、孔祥煕(こうしょうき)を窓口とする和平交渉に乗り出したが、陸軍次官の東条英機らが反対した。

陸軍ではその頃、蒋政権ナンバーツーの汪兆銘を担ぎ出そうと工作を進めており、互いに足を引っ張る形になっていたのだ。

 政府方針が一本化しないまま、宇垣は9月29日、外相就任4カ月で近衛に辞表を差し出した。

これを受けて近衛も「首相を辞めたい」と言い出し、厚相の木戸幸一や元老私設秘書の原田熊雄らが大慌てで慰留に努める騒動もあった(※1)。

 内閣にはびこる疑心暗鬼と縄張り争い。まさにドタバタである。

先の大戦後、日中戦争は日本の侵略行為と論じられることが多いが、実際には、こうした混乱により泥沼から抜け出せなかったのである。

 そしてもう一つ、内閣を混乱の淵(ふち)に落とした問題があった。

米英の圧力から逃れたいがため、独伊と軍事同盟を結ぶ動きが俄然(がぜん)強まってくるのだ。

× × ×

 1936(昭和11)年夏、ナチス・ドイツは「四カ年計画」を策定し、「ドイツ軍は四カ年のうちに出動能力を獲得しなければならない。

ドイツ経済は四カ年のうちに戦争遂行能力を獲得しなければならない」とぶち上げた。

その中でアドルフ・ヒトラーが、日本についてこう記している。

 「そもそもドイツとイタリア以外では、ただ日本のみが(ボルシェビズムという)世界的危険に対抗している国家とみなしうる」

 一方でヒトラーは、1925年出版の「わが闘争」の中で日本文化を軽視し、「(アーリア文化の影響が及ばなくなれば日本の)現在の文化は硬直し、七十年前にアーリア文化の大波によって破られた眠りに再び落ちてゆくだろう」とも書いている。

 ヒトラーは日本を、自らの軍事的野望を実現するための、都合のいいパートナーとしか見なかったといえるだろう。

× × ×

 日中戦争の初期、ドイツ国防軍が蒋介石政権に肩入れし、支援していたことはすでに書いた。

しかしヒトラーの側近、リッベントロップが1938年2月に外相となると、ドイツ外交は急速に日本支援に傾く。

リッベントロップは中国への武器輸出を禁止し、軍事顧問団を引き揚げた。

 ヒトラーとリッベントロップの狙いは、近く予想される英仏との戦いに日本を巻き込むことだ。

同年7月、リッベントロップは駐独大使館付武官の大島浩に、日独伊の三国軍事同盟を提案した。

 「日本が同意すれば、(軍事同盟を)イタリアに押しつける自信はある」

 日独伊の枢軸強化は、ソ連を牽制(けんせい)して封じ込めるのに役立つだろう。

陸軍は、同盟に前のめりになった。

だが、英米との摩擦を恐れる海軍と外務省が反対し、対ソ戦に限定した軍事援助案に修正しようとする。

英仏を対象とするリッベントロップの提案をのむかどうか、近衛内閣は、またしても閣内不一致の状態に陥った(※2)。

 この間にも、日中戦争は拡大の一途をたどる。

日本軍は5月に徐州(現中国江蘇省徐州市)を占領。

8月には30万人の大兵力をつぎ込んだ武漢作戦を発動し、10月21日に要衝の広東(現広東省広州市)を、同月27日に蒋介石政権が拠点を置く漢口(現湖北省武漢市)を含む武漢三鎮を完全に攻略した(中国軍は同月17日に撤退)。

 戦争を終わらせたい近衛内閣は、ここが和平交渉のターニングポイントとみたようだ。

ところが近衛は決心を貫けず、ついに内閣を投げ出してしまう--。

(社会部編集委員 川瀬弘至 毎週土曜、日曜掲載)

(※1) 宇垣の突然の辞職に、近衛は「わけが分からん」と当惑し、閣内不一致などを理由に辞意を固めたが、閣僚や宮中の説得を受け、翻意した

(※2) 近衛は、英仏を対象とする軍事同盟案には反対で、陸軍との軋轢(あつれき)に悩み、辞職願望を強めたとされる

【参考・引用文献】

○西川秀和著「フランクリン・ローズヴェルト大統領の『隔離』演説」(南山考古文化人類学研究会編集「南山考人」平成18年3月号収録)

○鈴木晟著「アメリカの対応-戦争に至らざる手段の行使」(軍事史学会編集「日中戦争の諸相」〈錦正社〉収録)

○古川隆久著「近衛文麿」(吉川弘文館)

○原田熊雄述「西園寺公と政局」7巻(岩波書店)

○田嶋信雄著「ナチズム極東戦略」(講談社)

○アドルフ・ヒトラー著「わが闘争 完訳〈上〉」(角川文庫)

○阿羅健一著「日中戦争はドイツが仕組んだ」(小学館)

○※4、5=矢部貞浩編著「近衛文麿〈上〉」(弘文堂)

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