第148回:汪兆銘工作 内閣を投げ出した近衛文麿

昭和天皇の87年

内閣を投げ出した近衛文麿 「陛下はまことにお気の毒…」

第148回 汪兆銘工作

 蒋介石政権が拠点とする武漢三鎮を日本軍が攻略した後、昭和13年11月3日、首相の近衛文麿は内外に向け、「東亜新秩序建設声明」を発表した。いわゆる第2次近衛声明である。

 「帝国の希求する所は、東亜永遠の安定を確保すべき新秩序の建設に在り、

(中略)固より国民政府と雖(いえど)も従来の指導政策を一擲(いってき)し、

その人的構成を改替して更生の実を挙げ、新秩序の建設に来り参ずるに於ては敢て之を拒否するものにあらず」

 この声明で近衛は、「国民政府を相手とせず」とした同年1月の声明(第1次近衛声明)を修正した。

暗示的な言い回しながら、蒋介石政権との交渉窓口を開こうとしたのだ。

 一方で近衛は、陸軍が進める汪兆銘工作にも期待を寄せた。

蒋政権ナンバーツーの汪を担ぎ出して親日的な新政権を樹立させるという、一種の謀略である。

むろん蒋の反発は必至で、第2次近衛声明とは矛盾した工作といえよう。

 昭和天皇は、汪兆銘工作には全く懐疑的だった。

12月10日、内大臣に言った。

 「謀略などといふものは当てになるものぢやない。大体できないのが原則で、できるのが不思議なくらゐだ」

× × ×

 12月18日、汪は蒋と決別して重慶を脱出。それに呼応して近衛は22日、

「相互に善隣友好、共同防共、経済提携の実を挙げん」とする声明(第3次近衛声明)を発表した。

だが、中国側で汪に従う有力者はおらず、昭和天皇の予想通りの結果に終わる。

 近衛の「辞めたい」病が、再び激しくなった。

 戦争の真っ最中だ。首相が辞めれば政府の混乱を国内外にさらすことになる。

陸相の板垣征四郎は「いま近衛に辞められては断じて困る」と猛反対したが、それまで何度も近衛の辞意に振り回されてきた閣僚や重臣らは、さじを投げたくなった。

 近衛の盟友、厚相の木戸幸一が元老私設秘書の原田熊雄に言う。

「(近衛が)多少真剣味を欠いてをるやうなら、やつぱり代わつた方がよい…」。

 元老の西園寺公望も投げやりになる。

「近衛が総理になつてから、何を政治してをつたんだか、自分にもちつとも判らない」。

 国家の非常時だ。本人にやる気がなければ、難局は乗り切れない。

12月末、参謀総長と陸相が相次いで参内し、「どこまでも近衛内閣をおとめ戴きたい」とすがった時、昭和天皇は静かに首を振った。

 「どうもそれはとても難しかろう」

 14年1月4日、近衛は多くの将兵を戦地に残したまま、内閣総辞職を奏上した。

 首相は辞職すれば重責から逃れられる。

しかし天皇は辞職できない。

近衛の辞職直前、元老の西園寺公望は嘆息した。

 「陛下に対してまことにお気の毒である。

あれだけ陛下は判つた方であられるだけ、まことに御同情に堪へない」

× × ×

 昭和12年7月の盧溝橋事件以来、昭和天皇が戦局の悪化を憂い、唯一の趣味としていた生物学御研究所での研究を自粛して公務に励んでいたことはすでに書いた。

それから1年後、13年7月の昭和天皇の様子を、宮中関係者はこう記している。

 「休日と雖(いえど)も、寛々(ゆるゆる)御憩ひの事もなし、連日連夜、御軍装を脱がせ給ふ御暇もなく、万機御親裁、殊に戦況に付ては、時を選ばず御聴取あらせらる」(※1)

 昭和天皇実録の記述からも、昭和天皇がつねに戦地の将兵を気づかい、国民生活の窮状に心を痛めていた様子が随所にうかがえる。

 13年7月12日《去月二十二日に大蔵大臣より経済事情等に関する奏上を御聴取の後、ガソリンを始め種々の節約につき注意を払われ、さらに御自身の御食事についても省略に及ばれる》(25巻92頁)

 7月26日《支那事変下の兵士の労苦、一般臣民の苦難への思し召しから避暑等は希望されない旨を仰せになる》(同巻99頁)

 昭和天皇は10月3日、首相を呼び、軍人援護に関する勅語を与えた。

 《(戦局の拡大で)或ハ戦ニ死シ 或ハ戦ニ傷キ 或ハ疫癘(えきれい)ニ殪(たお)ルヽモノ亦少カラス 是レ朕カ夙夜(しゅくや)惻怛(そくだつ)禁スル能ハサル所ナリ 宜シク力ヲ軍人援護ノ事ニ効シ 遺憾ナカラシムヘシ》(同巻127頁※2)

× × ×

 一方、戦局が悪化する中でも、皇太子(現在の上皇さま)をはじめ皇男女子は順調に成長されていた。

 11月27日《皇太子参内につき、皇后と共に御対面になる。内庭において皇太子が自転車を乗り回す様子を御覧の後、御昼餐を御会食になる》(同巻153頁)

 新たな命も誕生した。

 14年3月2日《この日朝より皇后に御産の兆しがあり、(中略・午後)四時三十五分、皇后は内親王を御分娩、天皇は入江(相政)より皇后・内親王共に御健勝の旨の奏上を受けられる》(同巻25頁)

 昭和天皇は、誕生した第5皇女を貴子と名付け、清宮(すがのみや)の称号をおくった。

× × ×

 同年1月5日、総辞職した近衛内閣の路線を引き継ぐ形で、枢密院議長の平沼騏一郎が組閣した。

この内閣のもとで大問題となるのは、英米と対立する独伊との軍事同盟である。

それが国家破滅につながるとみた昭和天皇は、時代の流れに敢然と立ち向かおうとする--。

(社会部編集委員 川瀬弘至 毎週土曜、日曜掲載 次回からは「ナチス旋風」編を連載します)

(※1) 昭和天皇はその後、健康状態を心配する侍従長らの進言を受け、13年6月から生物学御研究所にも足を運ぶようになった

(※2) 勅語にある「惻怛(そくだつ)」とは親身になって悼み悲しむこと

【参考・引用文献】

○昭和13年11月3日の読売新聞

○原田熊雄述「西園寺公と政局」7巻(岩波書店)

○古川隆久著「近衛内閣」(吉川弘文館)

○伊藤之雄著「昭和天皇伝」(文芸春秋)

○宮内庁編「昭和天皇実録」25巻

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