第150回 同盟問題(2)天皇も案じた訓令違反 大使の暴走が国家を危うくした

昭和天皇の87年

天皇も案じた訓令違反 大使の暴走が国家を危うくした

第150回 同盟問題(2)

日独伊三国同盟-。

歴史的にみてそれは、日中戦争で悪化した日本とイギリスとの関係改善を断ち切り、イギリスを支援するアメリカとの開戦へと突き進む、片道切符といえるだろう。

 昭和14年1月6日、ドイツから三国同盟の正式提案を受けた首相の平沼騏一郎は、陸海両相と外相、蔵相による五相会議を招集し、対応を協議した。

有事の際、ソ連のほか英仏も攻撃対象とする同盟案に賛成したのは陸相のみで、外相が反対したのは言うまでもない。

海相と蔵相も外相を支持し、激論の末、やや妥協して次の4条件を付けることにした。

 一、ソ連を主たる対象とするが、状況により第三国(英仏)を対象とすることもある

 二、第三国を対象とする武力援助は、行うかどうか、その程度も含め状況による

 三、外部に対しては防共協定の延長と説明する

 四、(二)と(三)は秘密事項とする

 外相の有田八郎は言った。

 「ドイツ側がこれ以上の譲歩を求めてきても、変更の余地は全然ない」

× × ×

 ところが、この修正案を駐独大使の大島浩と駐伊大使の白鳥敏夫が握りつぶしてしまう。

陸軍高官だった大島はもともと三国同盟の提唱者、革新官僚の白鳥は外務省きっての急進派だ(※1)。

ドイツの快進撃に目がくらんだ2人は、政府の訓令を無視してでも同盟締結にこぎ着けようとした。

 2人を説得するため有田が派遣した特使を、白鳥が一喝する。

 「こんな案ではとても独伊の同意はえられぬ。大島が怒るぞ」

 大島も、独外相の前で大見得を切った。

 「無留保、無担保の三国同盟ができないのなら、自分は白鳥と二人で大使を辞めてやる」

 いまや国家の命運は、出先の独断専行により危機に瀕(ひん)したといって過言ではない。

それを最も憂慮したのは、昭和天皇である。

大島らの訓令無視が目に余るようになった3月、侍従武官長にこう漏らした。

 「もし陸軍が出先の大使の言つて来たやうなことを押し通さうとすれば、外務大臣も総理も到底同意ができないのだから、或は内閣は代らなければならないやうな結果を導くかもしれない」

× × ×

 昭和天皇が懸念したように、陸相が三国同盟をごり押しすれば、閣内不一致で総辞職もあり得ただろう。

だが、首相の平沼は海千山千だった。

孤立する陸相の肩を持って総辞職を避けつつ、ひたすら結論を先送りするという、遅延策に出たのだ。

 以後、五相会議が延々と繰り返され、その数は平沼の在職中、8カ月足らずで70回以上に及んだ。

「優柔不断の誹を受けながら数十回に渉り(五相会議で)討議を累(かさ)ねたり」と、平沼自身が書き残している。

 早期締結を求める陸軍からは「首相の言はハッキリしているがシッカリしておらぬ」との不満も上がった。

しかし平沼は、何と言われようと泥をかぶる覚悟だった。

 一方、出先の独断専行に外相の有田は激怒し、海相の米内光政は大使罷免を主張した。

平沼はそれもなだめ、妥協案を再び訓令することにした。

 それでも大島と白鳥の暴走はとまらない。

4月2日、独外相のリッベントロップと会見した大島は、条件つきながら日本の参戦義務に同意してしまうのだ。

同じ頃、白鳥も伊外相のチアノにこう言い切った。

 「独伊が英仏と戦争する場合、条約の条項に基づき、日本が参戦するのはのはもちろんだ」

× × ×

 公然と訓令に逆らう大島、白鳥の「参戦」発言。

平沼内閣が仰天したのは言うまでもない。

だが、政府と軍部は一枚岩ではなかった。

外相の有田が五相会議で、両大使の発言を取り消す訓令を出そうと主張したものの、陸相の板垣征四郎は両大使の肩を持つような意見を唱え、訓令があいまいなものになってしまう。

 のちに有田は、当時の状況をこう書き残している。

 「東京において陸軍の主張が通らず、(陸軍にとって)不本意の訓令を政府の名において発出されると、今度はこの政府の訓令を現地において(大島と白鳥が)メチャメチャにしてしまおうとした」

 最悪の状況だ。しかし、ここで昭和天皇が動く。

4月10日、陸相の板垣に《出先の大島・白鳥両大使が訓令に反し参戦義務を明言したことは大権を犯すものとのお考えを示され、陸軍大臣が五相会議においてこれを擁護したこと、また会議ごとに決定事項を逸脱する発言をすることに対し、御注意になる》(昭和天皇実録26巻44頁)。

 昭和天皇は、欧州の戦争に巻き込まれまいとする政府の方針を、貫徹させようとしたのだ。

 昭和天皇の苦悩は尽きない。

その頃、陸軍に籍を置く雍仁(やすひと)親王とも意見が対立した。

先の大戦後、側近にこう打ち明けている。

 「私は秩父宮(雍仁親王)と喧嘩をして終(しま)つた。

秩父宮はあの頃一週三回位私の処に来て同盟の締結を勧めた。

終には私はこの問題に付ては、直接宮には答へぬと云つて突放ねて仕舞つた」

(昭和天皇独白録より)

 昭和天皇が憂慮を深める中、海千山千の平沼はどうしたか-。

実は、いたずらに小田原評定を続けていたわけではなかった。

戦争回避に向け、極秘で日米交渉を画策していたのだ--。

(社会部編集委員 川瀬弘至 毎週土曜、日曜掲載)

(※1) 大島は駐独大使館付武官となった昭和9年頃からナチス高官との接触を深め、日独防共協定を画策(11年調印)。

13年に駐独大使になると、防共協定を軍事同盟に格上げしようと奔走した。

一方の白鳥は、外務省情報部長だった昭和6~8年、満州事変で強硬論を唱え、国際連盟脱退を主張したことでも知られる

【参考・引用文献】

○有田八郎著「欧州情勢は複雑怪奇」(猪瀬直樹監修「目撃者が語る昭和史」〈新人物往来社〉5巻収録)より

○鈴木健二著「駐独大使 大島浩」(芙蓉書房)

○原田熊雄述「西園寺公と政局」7巻(岩波書店)

○平沼騏一郎回顧録編纂委員会編「平沼騏一郎回顧録」(非売品)

○高橋勝浩著「首相平沼騏一郎と『道義外交』-防共協定強化問題と『支那事変』処理」(国史学会編「国史学」第164号収録)

○外務省百年史編纂委員会編「外務省の百年〈下〉」(原書房)

○寺崎英成、マリコ・テラサキ・ミラー著「昭和天皇独白録」(文春文庫)

○宮内庁編「昭和天皇実録」26巻

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