第152回 同盟問題(4)新聞があおった反英世論

昭和天皇の87年

新聞があおった反英世論 海軍次官は遺書まで書いた

第152回 同盟問題(4)

発端は1939(昭和14)年4月9日、中国・天津の英仏租界で、親日派の中国人官吏がテロリストに射殺されたことだった。

 租界当局などの捜査で容疑者4人が逮捕され、犯行を自供したので、テロ被害に苦慮する日本側は容疑者の引き渡しを求めた。

しかし、イギリス側が拒絶したため、日本国内の世論は激高する。

背中を押された現地の日本軍が6月14日に租界を封鎖し、出入りするイギリス人らの身体検査をはじめると、今度はイギリス国内が激高。

日英両政府とも、過熱した自国の世論を抑えられない状況となった。

 昭和天皇は、日英関係の悪化を憂慮した。

 租界の封鎖など強硬姿勢をみせているのは陸軍だ。

昭和天皇は6月14日、陸相の板垣征四郎に対し、《天津英仏租界の封鎖につき、徒(いたず)らに意地を張って対立することは不得策につき、解決の道を講じること、兵・憲兵・警察等の末端には意図の徹底が不十分につき、

不意の事件が突発しないようすべきことを御注意になる》

(昭和天皇実録26巻75頁)

 翌15日も《参謀総長に対し、天津租界封鎖問題を速やかに解決すべき旨の御言葉を述べられ、(中略)犯人引き渡しがあれば、封鎖解除を考慮する旨の奉答を受けられる。

よって内大臣湯浅倉平をお召しになり、外務大臣に対し参謀総長の奉答を伝え、内閣総理大臣が同意ならば、犯人引き渡しを条件に封鎖解除の運びに進むべき事を伝えるよう命じられる》

(同巻76頁)

× × ×

 ところがこの頃の平沼騏一郎内閣は、なかなか昭和天皇の意向に沿うことができないでいた。反英世論の高まりが、一切の妥協を許さなかったのである。

 世論をあおったのは、またも新聞報道だ。

6月15日の東京朝日新聞が夕刊コラムに書く。

 「(イギリスに)断じて半歩をも誤るなかれ」

 7月8日の東京日日新聞も社説でたきつける。

 「本質の点において、妥協や譲歩の余地が、一厘一毛もない」

 両紙をはじめとする当時の新聞報道は、日韓関係をめぐる昨今の韓国メディアに酷似している。

記事や見出しで英国を「老獪(ろうかい)」「二枚舌」「黒い腹を白い歯でごまかす」などと罵倒し、少しでも親英的な発言をするなら、たちまち袋だたきにされるような雰囲気が醸し出された。

 こうした反英報道の背後に、英仏を攻撃対象に含める日独伊三国同盟の締結を急ぐ、陸軍がいたことは言うまでもない。

右翼団体も騒ぎだし、同盟に反対する保守派の重臣や海軍首脳にまで斬奸状(悪者を斬り殺すにあたって、その理由を書き記した文書)が送りつけられるなど、国内に不穏な空気がみなぎった。

 その頃、同盟阻止に奔走していた海軍次官は、暗殺されることも覚悟して遺書を書いている。

 --一死君国に報ずるは素(もと)より武人の本懐のみ、豈(あに)戦場と銃後とを問わんや。

勇戦奮闘、戦場の華と散らんは易し。

誰か至誠一貫俗論を排し倒れて已(や)むの難きを知らむ。

高遠なるかな君恩、悠久なるかな皇国。

思はざる可からず君国百年の計。

一身の栄辱生死、豈論ずる閑あらんや。(中略)此身滅す可し、此志奪ふ可からず。昭和十四年五月三十一日 於海軍次官々舎 山本五十六--

 ただ、陸軍側にものっぴきならない事情があった。

実はこのとき、満州で、ソ連軍が猛烈な攻勢をかけていたのである--。

社会部編集委員 川瀬弘至 毎週土曜、日曜掲載)

(※1) 玉井清・慶応大教授の研究によれば、天津租界封鎖問題をめぐる当時の新聞論調は反英一色で、国民の憤慨を「鎮静化させるのではなく、むしろその火に油を注ぐ先導役を演じていた」という

【参考・引用文献】

○王文隆著、土屋清香訳「天津事件と日英中関係」(軍事史学会編「日中戦争再論」〈錦正社〉収録)

○玉井清著「日中戦争下の反英論」(慶應義塾大学法学研究会「法学研究」73巻1号収録)

○池田清著「三国同盟と海軍左派トリオ」(雑誌「歴史と旅」平成11年9月号収録)

○宮内庁編「昭和天皇実録」26巻

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