第153回 大草原の激戦(1) ソ連軍を撃破した関東軍戦車部隊

昭和天皇の87年

ソ連軍を撃破した関東軍戦車部隊 名将ジューコフは狼狽した

第153回 大草原の激戦(1)

1939(昭和14)年夏、満州とモンゴルの国境地帯、見渡す限りの大草原を流れるハルハ河東岸の無人の地、ノモンハン-。

ここを互いに自国領と主張する満州国軍とモンゴル人民軍の小競り合いが、背後にいる関東軍とソ連軍の大衝突につながった。

 要因の一つは、前年夏の張鼓峰事件だ。

圧倒的兵力のソ連軍を相手に、専守防衛に徹した日本の朝鮮軍が孤軍奮闘し、昭和天皇に激賞されたことはすでに書いた。

しかし関東軍は、朝鮮軍が攻勢をとっていればソ連軍を撃滅できたと考え、自軍の勢力圏で挑発を受けたら断固とした措置をとると決心していた。

 関東軍の作戦参謀、辻政信が述懐する。

 「三対一の実力とはいえ『寄らば斬るぞ』の侵すべからざる威厳を構えることが、結果に於て北辺の静謐を保持し得るものであるとの信条は、軍司令官以下全関東軍の一兵に至るまで透徹していた」

 一方、ソ連軍は一大攻勢をかける機会をうかがっていた。

とはいえ全面戦争にはしたくない。

日本と防共協定を結ぶドイツが動けば、挟撃されて自滅するのは必至だからだ。

関東軍に痛手を与えつつ、ほどよいところで停戦する、そんな魂胆のソ連に貴重な情報を与えたのは、東京のゾルゲ諜報団である。

 日本の政権中枢にまでスパイ網を張りめぐらせたゾルゲと、彼の右腕となった元朝日新聞記者、尾崎秀実らが集めた機密情報により、日本政府の内情はソ連に筒抜けとなった(※1)。

× × ×

 軍事行動の端緒を探るソ連軍と、「寄らば斬るぞ」の関東軍。

ノモンハンの大草原に砲声が響くのは、1939年の春からだ。

 5月中旬、関東軍第23師団の部隊が満州国軍と協同で、ノモンハンに“越境”したモンゴル軍を駆逐しようと出動する。

対するソ連第57特設軍団もハルハ河を越え、モンゴル軍とともに東岸に布陣した。

 28日、第23師団の捜索隊がソ連側陣地の一部を突破し、敵を撹乱(かくらん)したが、孤立して全滅。

30日、今度はソ連側が攻勢をかけたものの、第23師団が撃退。

以後、ソ連側はハルハ河西岸に主陣地を移動し、関東軍は部隊を引き上げた。

 5月末までの第1次ノモンハン事件で、関東軍は航空隊も投入した。

日中戦争で経験豊富な日本軍機は、未熟なソ連軍機の敵ではない。

地上戦ではほぼ引き分けたが、空中戦では圧勝した。

× × ×

 昭和天皇が報告を受けたのは、6月5日だ。

陸相から《不拡大方針を堅持し、努めてソ連邦を刺激することなく局地問題として解決を図る》旨の奏上があったと、昭和天皇実録に書かれている(26巻69頁)。

陸相の言葉に偽りはなかっただろう。

日中戦争で手一杯の陸軍中央に、ソ連軍を相手にする余裕はない。

 だが、ソ連軍は拡大する腹だった。

6月の初め、現地のソ連第57特設軍団司令官に、新たな将軍が着任する。

その名はゲオルギー・ジューコフ。

のちに独ソ戦を勝利に導く、ソ連軍最高の英雄である。

 ジューコフは、強力な火砲と戦車を次々に投入、一大攻勢をかける作戦を立てた。

関東軍も陸軍中央の方針を逸脱し、負けじと国境に部隊を動員する。

 7月、ノモンハンに集結した関東軍の総兵力は2万人、戦車・装甲車90両、火砲140門、航空機180機。

対するソ連軍は1万2500人、戦車・装甲車450両、火砲110門、航空機280機(※2)-。

火力と機動力に勝るソ連側に、やや分があったといえよう。

 しかし、関東軍は強かった。

× × ×

 最初に動いたのは関東軍だ。

戦車第3、第4連隊を中心とする機動部隊がハルハ河東岸のソ連軍陣地を正面から攻め、第23師団の歩兵部隊が西岸に回りこんで背後から叩くという、挟撃作戦である。

 7月2日午後6時15分、折からの雷雨をついて、機動部隊が前進を開始する。

日本の戦車は砲力と速度に劣るが、乗員の練度は抜群だ。

巧みな射撃でソ連の装甲部隊を撃破し、戦車第3連隊は日没までに敵陣左翼の奥深くに進入した。

右翼を攻めた戦車第4連隊は、戦車戦で世界初となる夜襲を敢行。

敵陣を蹂躙(じゅうりん)して野砲を踏みつぶし、逃げまどう敵兵を蹴散らした。

 3日午前6時10分、主力の歩兵部隊がハルハ河西岸に渡る。

不意打ちとなった渡河攻撃に、ソ連軍は狼狽(ろうばい)した。

ソ連第11戦車旅団が応戦したが、関東軍の砲兵に狙い撃ちされ、次々に擱座(かくざ)、炎上する。

午前中に関東軍が破壊した戦車、装甲車は約100両に上った。

 ソ連軍の現地司令官、ジューコフは愕然(がくぜん)とした。

のちに、こう述懐している。

 「旅団は人員の半分を戦死者、負傷者として失った。

戦車も半数かそれ以上を失った。

攻撃を支援していたソ連軍とモンゴル軍の装甲車部隊はもっと大きな損害を出した。

戦車は私の目の前で燃えた。

ある戦区では36両の戦車が散開したが、そのうち24両は瞬く間に燃え上がっていた」

× × ×

 だが、関東軍の進撃はここまでだった。砲弾が尽きてしまったのだ。

ソ連軍を過小に見積もって十分な準備をしなかった、司令部参謀の失態である。

西岸に渡った歩兵部隊は5日までに東岸に撤退。

敵陣を踏みにじった戦車部隊も歩兵の到着が遅れたため、占領地を保持できずに後退した。

 一方、ジューコフは用意周到だった。

関東軍が撤退し、戦線が膠着(こうちゃく)した7月中旬~8月中旬、あらゆる手段で兵力の増強に努め、兵員5万7千人、戦車・装甲車840両、航空機580機を集結する。

 この間、関東軍の現地部隊は司令部の指示で冬ごもりの準備をしており、わずかに歩兵一個連隊程度が増強されたに過ぎない。

活躍した戦車部隊も解散させられ、1両の戦車もないというありさまだ。

 8月20日、満を持したジューコフの、大地を揺るがす猛攻撃が始まった--。

(社会部編集委員 川瀬弘至 毎週土曜、日曜掲載)

(※1) ゾルゲ諜報団とは、ドイツ紙東京特派員の肩書をもつソ連共産党中央委員会機密部員、リヒャルト・ゾルゲが組織したスパイ機関。

近衛文麿のブレーンだった元朝日新聞記者の尾崎秀実らが参画し、日本政府の機密情報を収集した。

ゾルゲはのちに、自らのスパイ活動の功績の一つにノモンハン事件を挙げている

(※2) 数字はいずれも概数。関東軍には満州国軍の、ソ連軍にはモンゴル軍の兵力も含まれる

【参考・引用文献】

○辻政信著「ノモンハン」(原書房)

○防衛研修所戦史室著「戦史叢書 関東軍〈1〉対ソ戦備・ノモンハン事件」(朝雲新聞社)

○古是三春著「ノモンハンの真実」(産経新聞出版)

○小田洋太郎ら著「ノモンハン事件の真相と戦果」(原史集成会)

○宮内庁編「昭和天皇実録」26巻

○マクシム・コロミーエツ著「ノモンハン戦車戦」(大日本絵画)

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