第158回 内憂外患 短命に終わった「重臣の切り札」

昭和天皇の87年

短命に終わった「重臣の切り札」 次期首相はこの人しかいないのか

第158回 内憂外患

西ひかし むつみかはして 栄ゆかむ 世をこそいのれ としのはしめに(※1)

 阿部信行内閣の総辞職からほぼ半月後の昭和15年1月29日、皇居の歌会始で詠まれた昭和天皇の御製である。

欧州の戦雲がアジアにも伸びようとする中、平和を祈る心が、1字1句に込められている。

 次期首相、米内光政は昭和12~14年の海相時代、英仏を敵に回す日独伊三国同盟に体を張って反対した硬骨漢だ。

昭和天皇の期待は大きかっただろう。

ただし、陸軍が協力的でなければ内閣はもたない。

大命降下の日、昭和天皇は陸相の畑俊六を呼んで聞いた。

 「陸軍は新しい内閣に対してどういふ風な様子か」

 「陸軍は纏(まと)まつて、新しい内閣に随(つ)いて参ります」

 「それは結構だ。協力しろ」

 米内は、阿部内閣がとった米英重視の外交路線を引き継ぎ、外相に有田八郎を迎えた。

近衛文麿内閣の後半以降、ともに閣僚として三国同盟を阻止してきた盟友である。

だが、欧州の戦局が、米内に腕をふるうことを許さなかった。

× × ×

 1940(昭和15)年4月、ナチス・ドイツはノルウェーに進攻。

5月にはフランスに攻め込み、西部戦線で独軍と英仏両軍がにらみ合いを続けていた「まやかしの戦争」は、膨大な出血を強いる「凄惨(せいさん)な戦争」へと一変する。

東部戦線ではソ連がバルト三国に大軍を送り込んで占領、戦禍が一気に拡大した。

 世界は、独軍の電撃戦を驚愕の目で見つめるしかなかった。

仏軍は西部戦線に66個師団の大兵力を展開していたが、独軍の機甲3個軍団が防備の手薄なアルデンヌの森を突破。

戦略予備軍を用意していなかった仏軍は総崩れとなり、英軍の遠征部隊もダンケルクから英本土へと撤退する。

6月14日、作戦発動から1カ月余りでパリは陥落し、それより前にオランダとベルギーも降伏した。

× × ×

 独軍の快進撃に、強く刺激されたのは日本の陸軍と革新勢力である。

独ソ不可侵条約で棚上げされた三国同盟の動きが再燃し、「バスに乗り遅れるな」の大合唱とともに、同盟反対の米内内閣を揺さぶった。

 7月16日、陸相の畑が辞職し、内閣は瓦解する。

畑は昭和天皇に「協力」を言明していたが、倒閣に走り出した陸軍を抑えきれなかったのだ。

 昭和天皇は嘆息したことだろう。

ただ、畑の辞表は従来の陸相と異なり、理由を明確にしてあった。

翌17日、恐懼(きょうく)して参内した畑に、昭和天皇は言った。

 「今回のことは誠に遺憾に思ふ。而し今迄兎角(とかく)曖昧な態度が多かったが、今回責任を明にしたのは不幸中の幸と思ふ」(※2)

 畑の頬を、涙がつたった。

× × ×

 ところで米内内閣が退陣した背景には、欧州の戦乱という国際情勢に加え、政党の変革という国内問題があった。

元首相の近衛文麿を担ぎ出し、全国民的な新党をつくろうという、新体制運動の盛り上がりである。

 いわゆる近衛新党の動きは、第1次近衛内閣の昭和13年夏頃から強まっていた。

最初に前のめりになったのは、日中戦争で右傾化した社会大衆党や中野正剛の東方会など左右両翼の革新系だ。

政友会の領袖らにも波及し、15年2月の衆院本会議で「反軍演説」をした民政党の斎藤隆夫が除名されたのを機に、政・民二大政党の保守派は総崩れとなった。

 米内内閣は、内大臣の湯浅倉平らが後ろ盾となって発足した。

全体主義的な風潮が強まる中で、自由主義的な米内内閣は「重臣の秘めた切り札」だったと、当時の新聞が書く(※3)。

その切り札への揺さぶりは重臣にも向けられ、湯浅は健康を悪化させて15年6月1日に辞職した。

後任の内大臣は近衛の盟友、木戸幸一である。

 7月17日、米内内閣が瓦解し、昭和天皇から後継首班の下問を受けた木戸は、宮中に首相経験者ら7人を集めて重臣会議を開き、わずか30分ほどで近衛の推薦を決めた。

新体制運動が盛り上がる中、近衛以外では国民の支持は得られず、何より陸軍によって潰されてしまうと考えたのだ。

 首相選定は本来、元老の西園寺公望の役目である。

しかし西園寺は第1次近衛内閣を最後に、内大臣らが持ち込んだ案に賛同するだけで、深く関わろうとしなかった。

自身が推薦した首相が陸軍に次々と潰されていくことに、うんざりしていたのだろう。

 今回は賛同することさえ辞退した(※4)。

4カ月後に死去する西園寺には、第2次近衛内閣の行く末が見えていたのかもしれない。

× × ×

 17日夜、昭和天皇は《お召しにより参内の公爵近衛文麿に謁を賜い、組閣を命じられる。

その際、内外時局重大につき外務・大蔵両大臣の人選には特に慎重にすべき旨を仰せになる》(昭和天皇実録27巻113頁)

 近衛の人事は良くも悪くも斬新だ。

昭和天皇から「特に慎重すべき」と指示された外相には、国際連盟脱退で名を売った元外交官の満鉄総裁、松岡洋右を起用した。

軍部統制のカギを握る陸相は、統制派を束ねる航空総監、東条英機である。

 この2人を、新聞各紙は「登場した両巨星」などともてはやし、こぞって歓迎した(※5)。

 だが、近衛も新聞も、見る目がなかったといえよう。

この2人が、やがて近衛が命がけで取り組む和平工作をぶち壊してしまうのだ--。

(社会部編集委員 川瀬弘至 毎週土曜、日曜掲載)

(※1) 御製の原文はスペースなし。意味は「西洋も東洋も、睦み交わして栄えていく世になることを、新年にあたり何よりも祈っている」

(※2) 昭和天皇は二・二六事件で内閣が総辞職したときなど、最も責任の重い陸相の辞表がほかの閣僚と同一の文面であることに、強い不満を持っていた

(※3) 米内内閣は蔵相など4閣僚を政党から起用するなど、自由主義的な色合いを打ち出していた

(※4) 西園寺は近衛の再登板について、老齢で病気もしていたため政情が的確に分からないとし、宮中からの使者に「この奉答だけは御免蒙りたい」と話した

(※5) 昭和天皇は「松岡外相は大丈夫か」と2度念押ししたという

【参考・引用文献】

○宮内庁編「昭和天皇実録」27巻

○原田熊雄述「西園寺公と政局」(岩波書店)8巻

○リデル・ハート著「第二次世界大戦〈上〉」(中央公論新社)

○アラン・ワイクス著「ヒトラー」(サンケイ新聞社出版局)

○木戸日記研究会校訂「木戸幸一日記〈下〉」(東京大学出版会)

○粟屋憲太郎著「昭和の政党」(岩波書店)

○竹山護夫著「第三七代 米内内閣」(林茂ほか編「日本内閣史録4」〈第一法規出版〉収録)

○昭和15年7月19日の東京日日新聞

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