第159回 ”はったり”外交 :ドイツと”心中”!?

昭和天皇の87年

ドイツと“心中”!? 三国同盟に突き進んだ松岡洋右の真意は

第159回 “はったり”外交

 日中戦争を泥沼にした近衛文麿内閣が退陣した後平沼騏一郎内閣(在任約8カ月)、

阿部信行内閣(同約4カ月半)、米内光政内閣(同約6カ月)と短命内閣が続き、再登板した第2次近衛内閣-。

その外相となった松岡洋右は自己顕示欲が強く、はったりの多い人物とされる。

日中戦争がはじまる前の昭和11年12月、日独防共協定(※1)の成立を受け、こんな演説をしていた。

 「日本人は心中といふことを知ってる筈(はず)だ。

(中略)ドイツと結婚した許(ばか)りなるに直ぐ(英米など)他所の女に色目を使ふとは一体何事であるか。

今少し国民の気節なり気品と云ふことを考ふるがよい。手れん手管が外交の総てゞはない」

 この“心中方針”を4年後も抱懐していたとすれば、松岡を外相にしたのは亡国人事といえよう。

だが、近衛は松岡流のはったりとみたようだ。

組閣2日前の昭和15年7月20日、近衛は元老私設秘書の原田熊雄に、こう言っている。

 「松岡は、日米戦争でもやるやうな風に言ひ出すので、初めの内は海軍大臣なども驚いてゐたやうだが、結局は非常に穏健な論で安心したやうだつた。

あゝいふ柄にもないことを一応言つて、人を驚かしたりすることは、どうも彼の欠点だ」

 近衛が松岡を起用したのは、松岡のはったりで陸軍を抑えるためだったとの見方もある。

これまで陸軍は、外交に口出しして政府を振り回してきた。

しかし、ときに陸軍を上回るような強硬論を唱えつつ「結局は非常に穏健な」松岡ならば、陸軍の介入を容易に許さないのではないか-。

 結論をいえば、見込み違いだ。

のちに近衛は、陸軍よりも松岡に振り回されることになる。

× × ×

 7月22日に発足した第2次近衛内閣は、早くも27日の大本営政府連絡会議で「世界情勢ノ推移ニ伴フ時局処理要項」を決定した。

ドイツに降伏したフランスとオランダが東南アジアにもつ植民地を日本の勢力下に置くため、

(1)独伊両国との政治的結束の強化(2)対ソ国交の飛躍的調整(3)対米英開戦の覚悟-を盛り込んだ、

政軍連携の外交方針である。

阿部信行内閣以降の「中道外交」を一気に転換するものといえよう。

 昭和天皇が憂慮したのは言うまでもない。

陸軍参謀総長と海軍軍令部総長に説明を求め、軍令部総長から《日米開戦の場合、持久戦になれば不利が予測されるため、特に資材の準備が完成しない限り軽々に開戦すべきではない旨の言上》を受けると、

翌日、侍従武官長に《(陸海)両軍の歩調が十分揃(そろ)わない観があることから、陸軍が無理に海軍を引き摺らないよう注意することを御下命》になったと、昭和天皇実録に記されている(27巻121、123頁)。

× × ×

 一方、松岡は日独伊三国同盟の締結に向け、猛然と走り出した。

 内閣発足から間もない頃だ。

松岡は外務省欧亜局の主管課長に、日独伊の提携強化についてただした。

欧亜局では「参戦にいたらざる限度における最大限の提携」を目指す案を文書で提示したが、それを一読した松岡は言った。

 「こんなものではダメだ」

 松岡は、その案に「虎穴に入らずんば虎児をえず」の一文を書き込んで突き返したという。

以後、松岡は省内の幹部らにも相談せず、ほぼ独断で三国同盟を推し進めていく。

 1カ月半後の9月7日、ドイツ本国から特使のスターマーが来日すると、松岡は私邸に招いて会談を重ね、

早くも10日、日本は欧州における独伊の指導的地位を、独伊は東アジアにおける日本の指導的地位を認めて尊重するとした同盟私案を提示。

これに対しスターマーは、日独伊の1国が「現在の欧州戦争又は日支紛争に参入し居らざる一国」から攻撃を受けた場合、「有らゆる政治的、経済的及軍事的方法により相互に援助」すべきとする修正案を申し入れた。

 スターマーのいう「一国」は、むろんアメリカを指している。

武力的な威嚇でアメリカを刺激する同盟案は本来、穏健保守派の重臣や宮中側近らが憂慮してきたことだが、松岡は原則同意した。

 「今もはや日独伊と結ぶか、日独伊を蹴って英米の側に立つか、日本としてハッキリした態度をきめなければならぬ時期に来てる」

 同盟締結に向けて首相の近衛らを説き伏せた、松岡の決めゼリフだ。

 松岡の案は四相会議や臨時閣議でも了承され、9月19日の御前会議で最終確認された。

その際、枢密院議長の原嘉道が、同盟によりアメリカの対日圧力が強まり、石油や鉄の禁輸措置に踏み切るだろうと懸念を示したが、松岡は強気だった。

 「今や米国の対日感情は極端に悪化しありて、僅かの機嫌取りして恢復(かいふく)するものにあらず。

只々(ただただ)我れの毅然たる態度のみが戦争を避くるを得べし」

 9月27日、ついに三国同盟は成立する。

 もっとも、同盟締結の責任を松岡だけに背負わせるのは酷だろう。

当時、新聞をはじめ世論の大多数が早期締結を熱狂的に支持していたからだ(※2)。

 締結後、東京朝日新聞主筆の緒方竹虎が前首相の米内光政に聞いた。

 「米内、山本(五十六)の海軍が続いていたら、徹頭徹尾反対したでしょうか」

 米内は、「無論反対しました」と答えた後、しばらく考えてからこう付け足した。

 「しかし殺されたでしょうね」--

(社会部編集委員 川瀬弘至 毎週土曜、日曜掲載)

(※1) ソ連を中心とする共産主義的破壊活動に対する相互通報・防衛協議などを定めた防共協定。

昭和11年11月に日独間で調印されたが、列国に配慮し、半ば骨抜きされた内容だった

(※2) 三国同盟締結後の各紙社説は、「国際史上画期的の出来事として誠に欣快に堪えざるところ」(東京朝日)、「新しき希望を地球上に布くもの」(東京日日)などと論じた

【参考・引用文献】

○三輪公忠著「松岡洋右」(中央公論社)

○原田熊雄述「西園寺公と政局」8巻

○林茂ほか編「日本内閣史録4」(第一法規出版)

○宮内庁編「昭和天皇実録」27巻

○外務省百年史編纂委員会編「外務省の百年〈下〉」(原書房)

○松岡洋右伝記刊行会編「松岡洋右-その人と生涯」(講談社)

○稲葉正夫ら編「太平洋戦争への道 別巻資料編」(朝日新聞社)

○前坂俊之著「太平洋戦争と新聞」(講談社)

○緒方竹虎著「米内光政を憶ふ-三国同盟をめぐつて」(月刊誌「文芸春秋」昭和24年8月号収録)

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