第161回 駐米大使 戦争回避のラストチャンス

昭和天皇の87年

戦争回避のラストチャンス!? 野村吉三郎の“湊川の戦い”

第161回 駐米大使

阿部信行内閣で日米関係改善に努めた元外相、野村吉三郎は、昭和15年の夏を富士山麓にある知人の別荘で、家族とのんびり過ごしていた。

海軍で大将に上りつめ、軍事参議官や学習院長を歴任し、そろそろ閑雲野鶴(かんうんやかく)の余生に入ろうかという境遇である。

 8月下旬の残暑の日、その野村のもとに、外相の松岡洋右から「お会いしたい」との電報が届いた。

松岡は当時、日独伊三国同盟の締結に向けて奔走しており、

いわば時の人だ。

同盟に否定的だった自分に何の用だろうと、首をかしげて帰京した野村の自宅に、松岡が早速たずねてきた。

 「駐米大使に御苦労願いたい」

 野村は仰天した。

松岡の三国同盟と、自分の日米親善とは、水と油である。

とても務まらないと丁重に断った。

だが、松岡はあきらめない。

3日後に再び野村をたずねて大使就任を懇請し、同盟締結後の10月以降は、古巣の海軍からも次々と奮起を促してきた。

 野村は、首を横に振り続けた。

自信がなかったのだ。

短命に終わった阿部内閣で外相を務めたとはいえ、所詮は一介の武片。

素人外交ではこの難局を乗り切れず、討ち死にするのは目に見えている。

 かたくなに拒む野村に、松岡が言った。

 「野村君、もう湊川へ行ってもいいじゃないか」

 絶妙の殺し文句だ。

建武3(1336)年、後醍醐天皇に反旗をひるがえした足利尊氏の大軍が京都に攻め上ったとき、楠木正成は勝ち目がないと知りつつ湊川の戦いに出陣、天皇に忠節を尽くした。

「湊川へ行く」の言葉に、野村はグラリと来た。

× × ×

 それから1カ月余りたった11月27日、野村は特命全権駐米大使に就任する(※1)。

平和思想の昭和天皇に忠節を尽くす“湊川の戦い”が始まったのだ。

翌年1月23日に横浜港を出港し、2月6日にサンフランシスコに到着した野村は、数十人の米人記者らを前に力強く言った。

 「日米関係を改善する。その信念をもって太平洋を越えてきた」

 その日、現地紙の夕刊に「野村提督は偉大なるアメリカの友人なり」の見出しが躍った。

 予想外の人気である。

だが、前途に光を見たような気がしたのは一瞬だった。

5日後に首都ワシントンに着くと、出迎えの米政府要人の姿もまばらで、冷え込んだ日米関係の現実を思い知らされた。

 野村は着任早々の2月12日、米国務長官のコーデル・ハルを訪ねて会見した。

しかし与えられた時間はわずか4分。現地の新聞は「短い会見時間のレコードだ」などと報じた。

× × ×

 2月14日は信任状奉呈式。いよいよ米大統領、フランクリン・ルーズベルトに会う日である。

野村は大正4~7年に駐米大使館付武官を務め、同時期に米海軍次官だったルーズベルトとは旧知の仲だ。

その後も文通を続けていたが、再会するのは20余年ぶりとなる。

 御名御璽の入った信任状を手に、ホワイトハウスの門をくぐった野村は身を硬くした。

出迎えた旧友の表情も、どこかぎこちなかった。

両者は型通りのあいさつを交わし、奉呈式は、あっけなく終わった。

 ところが式典後、少人数での歓談がはじまると、ルーズベルトはとたんに相好を崩した。

 「アドミラル野村、あなたは一向に変わらない」

 この一言に、野村は生気を取り戻したことだろう。

続けてルーズベルトは言う。

 「私は日本の友であり、米国をよく知る君は米国の友である。だからお互い、率直に話ができるはずだ」

 ルーズベルトは、日本の南進政策と三国同盟に懸念を示した。

口調は穏やかだが、日本への不信感を隠そうとはしなかった。

野村は、返す言葉に力を込めた。

 「自分は、日米は戦うべきではないと徹底的に信じている。両国は協力すべきだと確信しています」

 ルーズベルトが表情を緩める。

 「私は今後、いつでも喜んで君に面会するだろう」

 それまでの張りつめた空気が、嘘のように打ち解けた歓談だった。

3日前には野村の着任に冷淡だった現地の米紙も、この歓談を好意的に報じた(※2)。 

以後、野村は精力的に動く。

3月8日にはハルと2時間にわたり会談。

ハルは改めて三国同盟と南進政策への警戒感を示し、野村は日本の立場を説明した。

 別れ際、ハルは言った。

 「自分はあなたとのみ、この問題を非公式に、あるいは個人的に、オフレコで話をすることができる。

大統領と自分とは同じ意見だが、あなたが大統領と会見を望まれるなら、自分が仲介しよう」

 滑り出しは上々だ。

野村は、第一のハードルを乗り越えたと手応えを感じたのではないか。

 だが、障害はむしろ東京にあった。

外相の松岡洋右が、アメリカを刺激するような行動を起こしたのである--。

(社会部編集委員 川瀬弘至 毎週土曜、日曜掲載)

(※1) 野村が駐米大使を引き受けたのは、首相や内大臣ら重臣が強く望んでいたほか、海軍上層部が強く推したことが決め手となった。

ただし米内光政だけは「君を登らせて置いて、後から梯子(はしご)を外しかねないのが近頃の連中だから、充分気をつけるように」と忠告したという

(※2) 昭和16年2月16日の朝日新聞夕刊は「この日ワシントンの新聞は豪州、上海、マニラからの電報を満載して極東にて戦争危機が切迫してゐると報道してゐるにも拘(かかわ)らず野村、ルーズベルト初会談は極めて友好的に行はれたとて(中略)

単に形式のことに止らず、種々意見の交換があつたであらうと報じてゐる程である」と伝えた

【参考・引用文献】

○木場浩介編「野村吉三郎」(野村吉三郎伝記刊行会・非売品)

○野村吉三郎著「米国に使して-日米交渉の回顧」(岩波書店)

○外務省百年史編纂委員会編「外務省の百年〈下〉」(原書房)

コメントを残す

サブコンテンツ

i2i


サイト内ランキング



アクセスカウンター


このページの先頭へ