第162回 欧州歴訪 スターリンさえ手玉に…..松岡洋石の電撃外交

昭和天皇の87年

スターリンさえ手玉に…松岡洋右の“電撃外交”

第162回 欧州歴訪

駐米大使の野村吉三郎が米首都ワシントンへ赴任する直前、昭和16年1月のことだ。

疲労と心労から体調を崩し、自宅で寝込んでいた首相の近衛文麿のもとに、外相の松岡洋右が訪ねてきた。

 松岡は、見舞いの言葉もそこそこに言った。

 「欧州に行かせてほしい」

 近衛は困惑したが、無理に止めようとはしなかった。

「松岡は言い出したらきかない」からだと、翌日、内閣書記官長に語っている。

 松岡は当時、焦燥感にかられていた。

アメリカを牽制しようと日独伊三国同盟に踏み切ったものの、かえって対日制裁の拡大を招いた。

ドイツの仲介で進めようとした対ソ交渉も、ほとんど成果を上げていない。

そこで松岡は、自らベルリンに乗り込んで枢軸関係の強化を誇示するとともに、モスクワにも足を伸ばして不可侵条約を締結し、アメリカにさらなる圧力をかけようとしたのだ。

 万事に型破りな松岡の動向は、世界中が注目するところである。

渡欧の準備を進めているとの情報は各国に伝わり、とりわけ米政府首脳の神経を逆なでした。

大統領のルーズベルトは3月に行われた野村との2回目の会談で、「ヒトラーと松岡外相の写真が新聞に載れば、米国民を刺激するだろう」と、不快感を示している。

それより前、野村も日米交渉に与える悪影響を憂慮し、しばらく渡欧を見合わせるよう、松岡に打電した。

 だが、「松岡は言い出したらきかない」。

2月の大本営政府連絡懇談会で渡欧の了解を取りつけると、3月12日、自信満々の笑顔で旅立った。

最初に目指したのは、モスクワである。

 この時代、その方向性はともかく、松岡ほど馬力のある日本人はいなかっただろう。

知略に富み、語学にも秀でている。

シベリア鉄道の車中で、松岡は随員らを相手にしゃべりまくった。

 ……ロシア革命に干渉したシベリア出兵はアメリカの謀略だった……、

アメリカの策謀が日本の真意をあやまらせた……、日本はソ連と結ばねばならぬ……

 車内に盗聴器が仕掛けられていることを知っての、“リップサービス”である。

こういう芸当ができるのも、松岡の持ち味の一つだ。

 モスクワに着いた松岡は3月24日、クレムリン宮殿にソ連外相のモロトフをたずねた。

しばらくしてスターリンも姿をみせ、2人は固い握手を交わす。

 その場で松岡は、臆することなく一席ぶった。

 「日本人は道義的共産主義者である。この理念は遠い昔から子々孫々受け継がれて来た…」

 松岡流のはったりだ。

スターリンは煙に巻かれた。

松岡は不可侵条約を提案すると、ソ連側の回答を待たず、その日のうちにモスクワを離れた。

× × ×

 次の目的地はベルリン。

26日にアンハルター駅に到着した松岡を待っていたのは、独外相のリッベントロップをはじめずらりと並ぶナチス高官である。

宿泊所までの沿道は日独国旗を打ち振る約30万人の群衆で埋め尽くされた。

 大国の元首級の扱いで松岡をもてなしたドイツの狙いは、対英戦に日本を巻き込むことだ。

27日から29日まで、リッベントロップは松岡と3回会見し、日本にシンガポール攻撃を求めた

27日にはヒトラーが直々に交渉し、熱弁をふるって日本の奮起を促した。

 だが、ドイツの誘いにうかつに乗るような松岡ではない。

会見に同席したドイツ側関係者は後日、「松岡は決定的な言質を一つも与えなかった」(通訳を務めたシュミット)、

「松岡が八紘一宇論で長広舌をふるったので、ヒトラーは不機嫌になった」

(駐日大使のオットー)と話している(※1)。

 31日からはローマを訪問。

ここでもムソリーニから異例の歓待を受け、独伊訪問中、枢軸強化の新聞報道が世界中を駆け巡った(※2)。

× × ×

 華々しい外交を展開する松岡が、世界中の耳目を集めながら再びモスクワ入りしたのは4月7日である。

松岡の狙いは外交の“電撃戦”、日ソ不可侵条約の即時調印だ(※3)。

 日本に有利な条件を引き出すため、松岡はドイツの斡旋(あっせん)を期待したが、独ソ関係は急速に悪化しており、訪独中に色よい返事は得られなかった。

しかし、松岡は意に介さなかったばかりか、むしろソ連を揺さぶる好機とみたようである。

 実際、ソ連は日独に挟撃されることを恐れていた。

この時点で日本もソ連も、何らかの安全保障を求めていたといえるだろう。

あとはどちらが大きなパイを得るかだ。

ソ連はこの機会に、ロシア革命後に日本が獲得した北樺太の石油利権を取り戻そうとする。

 交渉は、弱みや焦りを見せた方が負けだ。

松岡とモロトフの、息詰まる駆け引きがはじまった。

 7日、松岡が改めて不可侵条約を提案し、北樺太を買収したいと申し出た。

これに対しモロトフは、提携度の弱い中立条約が適当だと主張し、あわせて日本の北樺太利権の放棄を迫った。

 9日、松岡は一歩引いて中立条約に同意し、北樺太問題とは切り離して即時調印するよう求めた。

しかしモロトフはかたくなに、北樺太問題の解決が不可欠だと言い張った。

 ここで松岡が手腕をみせる。

「これ以上、会談を続けるのは無駄なようですな」と、帰り支度をはじめたのだ。

モロトフは慌てた。

「11日にもう一度お会いしたい」と引き留め、10日に作戦を練り直す。

一方の松岡は10日、もう交渉には興味がないといった様子でバレエ鑑賞を楽しんだ。

 11日、モロトフのもとを訪ねた松岡は、これまでの歓待を謝し、別れを告げた。

モロトフはそれを制し、従来の主張に多少の色をつけた条約案を手渡した。

松岡は納得せず、条約とは別に北樺太問題の「解決に努力する」とした非公式文書を手交するという、いわば最後の妥協案を提示し、モロトフが逡巡(しゅんじゅん)していると、未練もみせずに辞去した。

 その夜、松岡の宿泊先に、スターリンから連絡があった。

 「明日、何時でもいいから面会したい」

 12日、松岡の妥協案をもとに、スターリンとの間で合意が成立し、13日、日ソ中立条約が調印される。

そのニュースは、世界中をあっと驚かせた(※4)。

 松岡外交の、“電撃的”勝利といえるだろう。

 一方、アメリカでもその頃、野村吉三郎の地道な努力が、ひとつの成果を上げようとしていた--。

(社会部編集委員 川瀬弘至 毎週土曜、日曜掲載)

(※1) 松岡はドイツ側に、日ソ交渉に向けた協力を求めたが、リッベントロップは「ソ連とあまり深い関係に入らないほうがいいと」と渋い顔をした。

ドイツはすでに、日本に知らせず独ソ戦の方針を決めており、両外相の意見がかみ合うことはなかった。

ただし表面的には日独の蜜月ぶりがアピールされた

(※2) 松岡はイタリア訪問中、バチカンも訪れて法王ピオ12世に謁見。

キリスト教について一席弁じた。

その後、随行の西園寺公一に「世界広しといえども、羅馬(ローマ)法王にキリスト教論を吹っかけたのは、この松岡一人でしょう」と語っている

(※3) 1939年のノモンハン事件以降、日本は東郷茂徳駐ソ大使を中心に対ソ交渉を進め、ソ連による蒋介石支援の停止と引き換えに日本の北樺太利権を放棄する中立条約案がほぼまとまったが、外相となった松岡は東郷を解任。

独ソ不可侵条約と同様の、より提携度の強い条約案に切り替えようとした

(※4) 北樺太問題の「解決に努力する」とした松岡の妥協案は、合意の直前にスターリンが「数カ月内に解決すべく努力する」と修正し、それを松岡がのむ形で中立条約が成立した。

ただ、調印と同時に満州と外蒙古の領土保全を尊重する両国政府の声明書が発表され、日本側の主張がほぼ認められる形となった

【参考・引用文献】

○三輪公忠著「松岡洋右」(中央公論社)

○松岡洋右伝記刊行会編「松岡洋右-その人と生涯」(講談社)

○外務省百年史編纂委員会編「外務省の百年〈下〉」(原書房)

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