第163回 日米諒解案(1) 戦争回避の極秘工作

昭和天皇の87年

戦争回避の極秘工作 陸軍のスペシャリストが派遣された

第163回 日米諒解案(1)

 自信家の外相、松岡洋右とスターリンが合意し、日ソ中立条約が電撃的に調印される1カ月前のことだ。

1941(昭和16)年3月14日、駐米大使の野村吉三郎と米大統領のルーズベルトが非公式に会談した。

 海軍出身の野村に、松岡のような駆け引きはできない。

交渉を進めるにあたり、まずは言った。

 「自分は水兵の率直さをもってお話をするが、礼を失することあってもその点御容赦を乞う」

 ルーズベルトは、「君の英語は大丈夫である」といって笑った。

 野村は会談で、もしも日米が開戦すれば長期戦となり、仮にアメリカが勝ったとしても極東が不安定となるので、アメリカに不利であることを切々と説いた。

ルーズベルトは、日米関係の重要性に同意したものの、日独伊三国同盟と日本の南進政策に、改めて危惧を示した。

 両者の主張に隔たりはあったが、野村の誠実さは、米首脳の心に届いたようだ。

別れ際、同席していた国務長官のハルは満足の表情を浮かべ、こう言った。

 「当面の問題のため、日本からイニシアチブをとってくれないか」

 以後、イニシアチブをとるにあたり野村が目をつけたのは、米カトリック系メリノール宣教会などが進めていた日米和解工作である。

× × ×

 話は松岡の渡欧前、昭和15年11月にさかのぼる。

 晩秋の寒風が吹く横浜港に、2人の聖職者を乗せた貨客船が到着した。

埠頭(ふとう)に降り立ったのは、メリノール宣教会のウォルシュ司教とドラウト神父。

東アジアの布教に力を入れる同宣教会は、日米関係を何とか修復したいと考えていた。

来日した2人は、日米首脳の直接交渉で事態打開を図るとする私案「ドラウト覚書」を手に、各界有力者の間をひそかに回った。

 日本政府は、2人のアプローチに興味を示したが、深入りはしなかった。

2人がどんな立場で動いているのか、米政府とつながっているのか、不明だったからだ。

このため首相の近衛文麿は、ドラウトらとの交渉を政府高官ではなく、産業組合中央金庫理事の井川忠雄に任せた(※1)。

 だが、ドラウトらの背後には米郵政長官のウォーカーがいた。

2人は米政府とつながっていたのである。

翌年1月下旬、帰国したドラウトから、ルーズベルトとの間に交渉の糸口ができたとの連絡を受けた井川は、近衛とも相談の上、2月に渡米する。

井川とドラウトは、極秘に会談を重ねた。

× × ×

 ほぼ1カ月後の3月17日、ふたりの間で国交調整の基礎案がまとまる。

もっとも、それは日本政府の後ろ盾を得たものではなかった。

外務当局はむしろ、井川の素人外交を危ういものとみなしていた。

 しかし、ここで2人に新たな助っ人が現れる。

野村の要請もあり、陸軍省が工作活動のスペシャリストを派遣したのだ。

陸軍中野学校(※2)を設立したことでも知られる、軍事課長の岩畔豪雄(いわくろひでお)である。

 岩畔の参入で、和平工作は現実味を増した。

それまでノータッチだった駐米大使館も側面支援し、4月、ドラウトらの基礎案を岩畔が修正して「日米諒解(りょうかい)案」が作成される。

それは、次のような内容だった。

 まず懸案の日独伊三国同盟について、アメリカがドイツを積極的に攻撃しない限り日本の軍事上の義務は生じないとし、その効力を大幅に弱める。

次いで日中戦争については、(1)中国の独立(2)協定に基づく日本軍の撤退(3)中国領土の非併呑(4)非賠償(5)門戸開放方針の復活-を日本政府が保障し、米政府が(6)蒋介石政権と汪兆銘政権の合流(7)満洲国の承認-を受容する。

そうすれば米大統領は「蒋政権ニ対シ和平ノ勧告ヲ為スヘシ」とされた。

三国同盟で日本が譲歩するかわりに、日中戦争でアメリカが妥協した内容といえるだろう(※3)。

 4月16日、野村と会談したハルが言った。

 「この民間のアメリカ人と日本人が用意した非公式な文書は、大使が日本政府に伝達して、承認をえ、さらにアメリカ側への提議についての訓令をえる場合、話しあいに入る基礎となるであろう」(※4)

 ゴーサインが出たのだ。

野村は歓喜し、ただちに外務省に打電する。

モスクワで松岡が電撃的に日ソ中立条約を調印した、4日後のことだった。

 日米開戦の危機が日増しに高まっていた頃である。

思わぬ“素人外交”の成果に、外務省も歓喜した。

日米諒解案の全文を受電し終わった18日、首相官邸では閣議が開かれていたが、外務次官の大橋忠一が駆け込んで首相の近衛文麿に報告した。

大橋の声は、うわずっていたという。

 「ほ、本当かね」

 近衛の声もうわずった。

ただちに大本営政府連絡懇談会が開かれ、早くも交渉開始を決定する。

開戦の危機が遠のいたと、誰もが思ったことだろう。

懇談会の出席者が言った。

 「野村大使に、原則賛成と返電したらどうか」(※5)

 だが、近衛は顔を曇らせた。

まだ帰国していない松岡がどんな反応をするか、不安になったのである--。

(社会部編集委員 川瀬弘至 毎週土曜、日曜掲載)

(※1) 井川は大蔵省出身で、近衛と親しかった

(※2) 昭和13年に設立された日本初のスパイ養成校

(※3) このほか、日本が武力による南進政策を放棄するかわりに、アメリカが石油などの資源獲得に協力する方針も盛り込まれた

(※4) このときハルは、(1)あらゆる国家の領土保全(2)他国の内政への不干渉(3)通商上の機会均等(4)太平洋での現状維持-の4原則が前提だと伝えたが、野村は日本側の反発を考慮し、外務省には打電しなかった

(※5) 原則賛成の返電は近衛が主張し、大橋が躊躇(ちゅうちょ)したとする文献もある

【参考・引用文献】

○木場浩介編「野村吉三郎」(野村吉三郎伝記刊行会・非売品)

○野村吉三郎著「米国に使して-日米交渉の回顧」(岩波書店)

○塩崎弘明著「日英米戦争の岐路-太平洋の宥和をめぐる政戦略」(山川出版社)

○角田順著「日本の対米開戦」(日本国際政治学会太平洋戦争原因研究部編著「太平洋戦争への道〈7〉日米開戦」〈朝日新聞社〉収録)

○外務省百年史編纂委員会編「外務省の百年〈下〉」(原書房)

○富田健治著「敗戦日本の内側」(古今書院)

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