第165回 北進か南進か 裏切りの独ソ戦

昭和天皇の87年

裏切りの独ソ戦 三国同盟破棄のチャンスが訪れたが…

第165回 北進か南進か

 1941(昭和16)年6月22日、かつて日本を混乱させた独ソ不可侵条約が突如破られ、またも日本を混乱の谷に突き落とした。

ドイツの大軍が、なだれを打ってソ連に侵攻したのだ。

動員された兵力はおよそ300万人。

約2700機のドイツ軍機と約3550両の戦車がモスクワ、レニングラード、ウクライナの三方に向けて走り出す。

不意を突かれたソ連軍は総崩れとなった。

 世界の陸戦史に例を見ない大規模奇襲攻撃、「バルバロッサ(赤ひげ)作戦」の発動である。

 ヒトラーが対ソ戦を決意したのは1940年7月末とされる。

日独伊三国同盟が締結される2カ月前だ。

その日の秘密会議で、ヒトラーは言った。

 「英国の希望はロシアとアメリカである。

(中略)ロシアが打倒されると、英国の最後の望みも消滅するであろう。

その暁にはドイツはヨーロッパとバルカンの支配者になれる」

 なかなか屈しないイギリスを孤立無援とするため、潜在的な支援国のソ連を殲滅(せんめつ)する、もう一方のアメリカは日本に牽制(けんせい)してもらおう-というのが、ヒトラーの魂胆だった。

三国同盟の締結時に日本とソ連との橋渡しを口約束しながら、腹の底では真逆の陰謀を画策していたのだ。

× × ×

 ドイツは、独ソ戦の開始を日本に事前通告しなかった。

先見の明があれば、これを背信行為とみなして三国同盟を空文化し、日米交渉を一気に前進させることもできただろう。

しかし、外相の松岡洋右には、そんな考えは微塵(みじん)もなかったようだ。

 独ソ戦勃発の6月22日、急ぎ参内した松岡の様子を、昭和天皇実録が書く。

 《御学問所において外務大臣松岡洋右に謁を賜う。

外相より、独ソ両国が開戦した今日、我が国もドイツと協力してソ連邦に対して即時開戦すべきこと、そのために大本営政府連絡懇談会を開催すべきこと、

よって南方進出は一時手控える必要あるも、早晩戦わなければならず、いずれソ英米三国と同時に戦わなければならない旨の奏上を受けられる》(28巻104頁)

 松岡はこのとき、首相の近衛文麿とも相談せず、対ソ開戦の方針を独断で奏上した。

昭和天皇は、近衛と協議するよう命じて松岡を下がらせ、内大臣の木戸幸一を呼んだ(※1)。

 《(昭和天皇は)内大臣に対し、外相の対策は北方、南方いずれにも積極的に進出する結果となるため、政府・統帥部の意見は一致するや否や、また国力に鑑みて妥当であるや否や等につき御憂慮の御言葉を述べられる》(同巻同頁)

× × ×

 一方、昭和天皇の意向を知る近衛は、この機会に国策の重大転換を図ろうとした。

のちに近衛は、手記にこう書いている。

 「平沼(騏一郎)内閣当時、蘇(ソ)連を対象とする三国同盟の議を進めながら、

突如其相手蘇連と不可侵条約を結びたることが、独逸(ドイツ)の我国に対する第一回の裏切行為とすれば、蘇連を味方にすべく約束し、此約束を前提として三国同盟を結んで置きながら、

我国の勧告を無視して蘇連と開戦せるは、第二回の裏切行為といふべきである」

 日独伊三国同盟の前提が崩れた以上、これを破棄してアメリカと交渉するしか道はない-。

近衛はそう考え、内閣書記官長の富田健治に三国同盟破棄の根拠を書かせて陸・海・外相と内大臣に提示した。

 内大臣の木戸幸一は賛成した。

 外相の松岡洋右は反対し、この際ソ連を攻撃しようと言い出した。

 陸海軍上層部も反対で、むしろ南部仏印に進駐すべきだと主張した。

 以後、6月25日から連日開かれた大本営政府連絡懇談会は、松岡の北進論と陸海軍の南進論とが対立、激しい議論の応酬となる。

松岡も軍部もドイツの快進撃に目がくらみ、ドイツの圧勝を前提として国策を立てようとしたのだ。

近衛の同盟破棄論は、まったく問題にされなかった。

 激論の末、「自存自衛ノ基礎ヲ確立スル為南方進出ノ歩ヲ進メ」るとして、南進論に軍配が上がる。

近衛は、松岡が主張する対ソ戦を回避するため、当時は開戦の危険が少ないとみられた南進論を了承したのだろう。

「目的達成ノ為対英米戦ヲ辞セス」との文言も盛り込まれたが、虚勢を張っただけで、本気で英米を敵に回そうとは思っていなかった(※2)。

 この方針は「情勢ノ推移ニ伴フ帝国国策要綱」と名付けられ、7月2日の御前会議で確定する。

× × ×

 結論をいえば、南進すなわち南部仏印への進駐により英米との亀裂は修復不能になる。

近衛にも陸海軍にも、急速に高まる開戦の足音が聞こえていなかったのだ。

 昭和天皇には聞こえていた。

この時期、参内した陸海軍首脳に南部仏印進駐で新たな危機が生じないかを繰り返したずね、進駐にあたり武力を行使しないよう注意している。

 だが、軍部の反応は鈍かった。

 7月7日《(昭和天皇は南部仏印進駐について参謀総長に)英国の対抗行為の有無、及び無血進駐の見通しにつき御下問になる。

参謀総長より、(中略)英国の動きは威嚇に過ぎず、手を出すとは判断していないこと、無血平和進駐は保証できないものの、大きな支障はなく進駐できると考える旨の奉答を受けられる》(昭和天皇実録29巻8頁)

 危うい楽観論だ。

昭和天皇の懸念に対する、この見通しの甘さが、日本を破滅へと追い込んでいく--。

(社会部編集委員 川瀬弘至 毎週土曜、日曜掲載)

(※1) 松岡が参内する直前、昭和天皇は木戸から《(独ソ戦を受けて)外相が種々対策について見解を言上するとしても、首相と相談済みであるか否かを質されるとともに、

十分首相と協議すべしとの意味を仰せいただき、首相中心のお心構えをお示し願いたき旨の言上》を受けていた(昭和天皇実録28巻104頁)

(※2) ソ連の敗北にも備え、満州に大軍を集結する関東軍特種演習(関特演)の実施も決定した

【参考・引用文献】

○リデル・ハート著「第二次世界大戦〈上〉」(中央公論新社)

○越後谷太郎著「独ソ戦の始まりとその転換点」(文芸社)

○義井博著「昭和外交史」(南窓社)

○宮内庁編「昭和天皇実録」28、29巻

○近衛文麿手記「平和への努力」(日本電報通信社)

○富田健治著「敗戦日本の内側」(古今書院)

○角田順著「日本の対米開戦」(日本国際政治学会太平洋戦争原因研究部編著「太平洋戦争への道〈7〉日米開戦」〈朝日新聞社〉収録)

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