第214回 皇室の変革 11宮家が皇室離脱 「朕」も「わたくし」になった

昭和天皇の87年

11宮家が皇籍離脱 「朕」も「わたくし」になった

画=千葉真
画=千葉真

第214回 皇室の変革

昭和天皇の地方巡幸がはじまり、やがて中断された昭和21~23年、国内情勢はめまぐるしく動いた。

 21年4月に実施された戦後初の総選挙で、立憲政友会の流れをくむ日本自由党が第1党になったことはすでに書いた。

幣原喜重郎内閣は総辞職し、大命は自由党総裁の鳩山一郎に下るかと思われたが、その直前、GHQの指令で鳩山が公職追放され、

同党総裁を引き継いだ吉田茂が組閣する。

日本がどん底だった時代だ。

吉田内閣は、食糧難とインフレと、それに乗じた労働争議の頻発に翻弄された。

 その頃、活発に動いたのは共産党である。

労働争議を政治闘争と結びつけ、22年2月1日をもって国鉄、郵便、学校などの一斉スト(二・一ゼネスト)を計画。

マッカーサーの介入でストは回避されたものの、吉田内閣への打撃は大きく、4月25日の総選挙で自由党は第2党に後退した。

 かわって第1党に躍進したのは日本社会党だ。

しかし過半数には遠く及ばず、第3党の民主党などと連立を組んで片山哲内閣が発足する。

決断力に乏しく、「グズ哲」と呼ばれた片山は、本予算も組めないまま8カ月余で内閣を放り投げた。

 戦前の「憲政の常道」に従うなら、次期首班は野党第一党、吉田自由党の再登板だろう。

新聞各紙の世論調査もそれをのぞんだが(※1)、GHQの民政局は吉田を嫌い、片山内閣の副総理だった芦田均(民主党総裁)を後押しした。

政権たらい回しで芦田内閣が発足したのは23年3月のこと。

既述のように、芦田は民政局の顔色ばかりうかがい、宮内府長官と侍従長を辞職させて地方巡幸を中断に追い込んだ。

 その芦田も、組閣の翌月に発覚した昭電疑獄(※2)で10月に退陣、やがて収賄容疑で逮捕される。

× × ×

 皇室も変革を免れなかった。

皇室財産は国有となり、宮内府の定員が約4分の1に縮小する。

22年10月には弟の秩父宮、高松宮、三笠宮を除く11宮家51人が皇籍離脱を余儀なくされた。

 一方で昭和天皇は、新しい時代にふさわしい皇室のあり方についても、考えをめぐらせていたようだ。

21年に学習院中等科に入学された皇太子(上皇さま)の英語教育のために、米人家庭教師のバイニングを招いたのもその一例だろう。

日本国憲法施行後の第1回国会開会式以降、勅語の文体も口語体にかわり、「朕」は「わたくし」となった。

 とはいえ昭和天皇は、降りつもる雪に色を変えたわけではなかった。

枝をしならせつつ、日本を守る戦いを続けていたのである。

 22年の年の瀬。

戦勝国の理不尽と対決するもう一つの戦いが、佳境を迎えようとしていた--。(社会部編集委員 川瀬弘至 毎週土曜、日曜掲載)

(※1) 片山内閣の総辞職を受け、読売新聞が京浜地区で行った世論調査では自由党首班論45・6%、解散論38・3%、民主党首班論11・4%。

毎日新聞が東京で行った世論調査では自由党55・4%、社会党25・0%、民主党12・2%、共産党1・6%-などだった

(※2) 化学工業大手の昭和電工が復興金融公庫の融資を受けるため、政界に多額の賄賂をおくった事件。

GHQ内部で民政局と主導権争いをしていた参謀第2部(G2)が疑獄追及の背後にいたとされる

【参考・引用文献】

〇天川晃著「第四五代 第一次吉田内閣」(林茂ら編「日本内閣史録5」〈第一法規出版〉収録)

〇大森彌著「第四六代 片山内閣」(同)

〇宮内庁編「昭和天皇実録」36巻

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