第216回 東京裁判(2) 万歳三唱して処刑台に立った7人

昭和天皇の87年

万歳三唱して処刑台に立った7人 陛下は泣いておられた…

第216回 東京裁判(2)

東京・市ケ谷の旧陸軍士官学校大講堂で極東国際軍事裁判(東京裁判)が開かれていた頃、法廷の内外には、依然として天皇訴追の動きがくすぶっていた

戦勝11カ国で構成する極東委員会は1946(昭和21)年4月、天皇不起訴の方針を固めたが、裁判長のウエッブ(豪州)や判事の梅汝●(=王へんに土の下に方、右に攵)(中国)らは、少なくとも証言台に立たせるべきだと考えていたのだ(※1)。

昭和天皇が証言台に立てばどうなったか-。

首席検事のキーナンが言う。

「マックアーサー元帥が余に語つたところによれば、もし天皇が証人として出廷させられたならば、天皇自身はわれわれが証拠によつて見出した彼に有利な事実をすべて無視し、日本政府のとつた行動について自ら全責任を引受ける決心があったという。

すなわち証拠によつて天皇は立憲国の元首であり、法理上、また職責上必ず側近者の補佐に基いて行動しなければならなかつたことが証明されているが、

それにもかゝわらず、天皇はもし出廷させられたとしたら、このようなことを自己の弁解に用いるようなことは一切しなかつたであろう…」

 だとすれば、昭和天皇を証言台に立たせるわけにはいかない。

ところが昭和22年12月31日の法廷で、東条英機が「日本国の臣民が陛下の御意思に反して行動することはあり得ぬ」と発言したため、ウエッブら訴追派を勢いづかせてしまった。

昭和天皇の訴追は、東条が最も恐れていたことだ。

自身の発言が訴追要因にされるとしたら、東条は死んでも死にきれなかっただろう。

この時、東条に発言訂正の機会を与えたのは、キーナンである。

尋問最終日の翌月6日、キーナンが聞いた。

「あなたは、日本臣民たるものは何人たりとも、天皇の命令に従わないと考えることはないと言いましたが、それは正しいですか」

東条は、今度は慎重に言葉を選んだ。

「私の国民としての感情を申し上げたのです。天皇の御責任とは別の問題」

「しかしあなたは実際、米英蘭に対して戦争をしたのではありませんか」

「私の内閣において戦争を決意しました」

「それは裕仁天皇の意思でありましたか」

東条は答えた。

「御意思と反したかも知れませんが、とにかく私や統帥部の進言によって、しぶしぶ御同意になったのが事実でしょう。

平和愛好の御精神で、最後の一瞬まで陛下は御希望をもっておられました」

× × ×

結果的に、この発言訂正により「天皇の免罪は確定的となり、国民はひとしく愁眉(しゅうび)を開いた」と、弁護人の菅原裕がつづっている。

東条は、一切の自己弁護を放棄して日本の正当性を訴え、昭和天皇の責任を最終的に否定してみせたのだ。

だが、東条の真意が、正しく国民に伝わったわけではない。

東条への尋問が終わった昭和23年1月8日、朝日新聞コラムの「天声人語」は書いた。

「一部に東条陳述共鳴の気分が隠見していることは見のがしてはならない。

(中略)民主々義のプールに飛込んだはずの水泳選手が、開戦前の侵略的飛込台に逆もどりするにひとしい」

毎日新聞コラムの「余録」も書く。

「戦争の最高責任者として、東条の言い分に、多少の『理論』みたいなものがあるのは怪むに足らぬ。

(中略)エラクない彼は、エライ責任を負うことになったのも日本の宿命だ」

× × ×

東京裁判が「手段をかえた戦争の報復」であったことはすでに書いた。

開戦前にはなかった「平和に対する罪」と「人道に対する罪」により、国民に贖罪(しょくざい)意識を植えつけることが、この“裁判劇”の狙いだ。

そんな中、日本の立場を堂々と弁じ、昭和天皇の責任を否定してみせた東条の証言は「占領に対する最大の一撃」だったと、のちに連合国側も認めている。

しかし日本の新聞は、東条を悪役に仕立てようとする連合国の言いなりだった。

戦後に自虐史観が蔓延(まんえん)したのは、東京裁判そのものより、こうした報道などに原因があったといえよう。

× × ×

昭和23年11月12日、判決が言い渡された。

死刑は、日米開戦時の首相だった東条(陸軍大将)▽満州事変の首謀者で陸相などを歴任した板垣征四郎(同)▽終戦時ビルマ方面軍司令官の木村兵太郎(同)

▽華北分離工作を進めたことで知られる土肥原賢二(同)▽陸軍省軍務局長などを歴任した武藤章(陸軍中将)▽南京事件当時の現地軍司令官だった松井石根(陸軍大将)▽元首相・外相の広田弘毅(文官)-の7人(※2)。

「デス・バイ・ハンギング(絞首刑)」の宣告を受けた東条は、通訳のイヤホンを静かに外し、正面に向かって軽く一礼した。

その表情は、微笑するようでもあったという。

執行は12月23日。

7人は「天皇陛下万歳」「大日本帝国万歳」を三唱し、処刑台の露と消えた。

今ははや 心にかかる 雲もなし 心豊かに 西へぞ急ぐ

東条の辞世である。

その日、東宮侍従の村井長正がみた昭和天皇は、「生涯忘れられない」ものだった。

「陛下は眼を泣き腫らして、真っ赤な顔をしておられた。

生涯忘れられないお顔である。

私は恐れおののき、視線を落とし、二度とそのような陛下を見まいとして要件だけ述べ、顔を伏せたままドアを閉めた」--。

(社会部編集委員 川瀬弘至 毎週土曜、日曜掲載)

(※1) 極東委員会とは、日本管理の政策原則などを決定するGHQの上位機関で、構成する11カ国は東京裁判に判事を一人ずつ出す権利を有した

(※2) このほか内大臣の木戸幸一ら16人が終身刑、2人が有期禁固刑となった

【参考・引用文献】

〇菅原裕著「東京裁判の正体」(時事通信社)

〇新田満夫編「極東国際軍事裁判速記録」(雄松堂書店)8巻

〇日暮吉延著「東京裁判」(講談社)

〇日沢四郎著「市ヶ谷の表情」(池田佑編「秘録大東亜戦史6」〈富士書苑〉収録)

〇平野素邦著「法廷秘話」(同)

〇上法快男編「東京裁判と東条英機」(芙蓉書房)

〇橋本明著「封印された天皇の『お詫び』」(鶴見俊輔ほか編「天皇百話〈下〉」〈筑摩書房〉収録)

〇昭和23年11月21日の朝日新聞

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