第218回 イデオロギー対立(2)アメリカをうならせた天皇の政治センス

昭和天皇の87年

アメリカをうならせた天皇の政治センス 首相のミスを見事にカバー

画=千葉真
画=千葉真

第218回 イデオロギー対立(2)

 第二次世界大戦後、世界はアメリカを中心とする自由・資本主義陣営と、ソ連が主導する共産・社会主義陣営に二分された。

日本とともに敗れたドイツは東西に分断され、1948(昭和23)年7月、米英仏が管理するベルリン西側をソ連が封鎖。

以後、米ソ両陣営による、核戦争の危機と隣り合わせのにらみ合いが続く。

冷戦時代の到来である。

 アジアでは、冷戦どころか激戦となった。

中国で1946年6月、蒋介石の国民党軍と毛沢東の人民解放軍が内戦に突入。

敗れた蒋介石は台湾に逃れ、毛沢東は49年10月、中華人民共和国の建国を宣言する。

 熾烈(しれつ)なイデオロギー対立は日本の占領統治にも影響した。

リベラル政策を進めるGHQ民政局のニューディーラーたちが、退場することになったのだ。

 直接の原因は、片山哲内閣、芦田均内閣と続いた中道政権の挫折である。

後継の最有力は野党第一党、民主自由党(※1)総裁の吉田茂だが、民政局は吉田を嫌い、元逓信相の三木武夫(国民協同党委員長)の担ぎ出しを画策。

三木が「憲政の常道に反する」として断ると、民主自由党幹事長の山崎猛を立てようとした。

だが、吉田派議員の説得で山崎が議員辞職したため、吉田阻止の陰謀は土壇場で頓挫する。

 民政局は、なぜ吉田を嫌ったのか-。

同局課長のウイリアムスは当時、民主自由党の長老議員にこう言っている。

 「(民主)自由党は旧体制から決して抜け出していない。天皇を潜在意識的に政治へ引きこもうとしている」

 民政局は、昭和天皇を恐れていたのだ。

 片山、芦田両首相が民政局の言いなりだったことはすでに書いた。

当時、民政局が操れなかった日本人は2人、吉田と昭和天皇である。

2人は民政局の頭ごなしにマッカーサーと直接交渉できる、政治的力量を持っていた(※2)。

 昭和23年10月15日、第二次吉田内閣が発足し、民政局の影響力は低下する。

GHQの主導権は、諜報活動を任務とする参謀第2部(G2)に移った。

× × ×

 第二次吉田内閣の使命は講和問題、すなわち主権回復の流れをつくることだ。

 一刻も早く戦勝国と講和し、占領状態を終わらせたい吉田にとって、最大のネックは講和後の安全保障である。

当時、アメリカ本国が講和後の再軍備と米軍駐留を検討していたのに対し、マッカーサーは日本の非武装中立に固執していた。

そのどちらを選択するかで、日本の未来は大きく変わることになろう。

 現在からみれば、非武装中立など画餅に過ぎない。

しかし吉田は、マッカーサーとの距離があまりに近すぎたせいか、判断がにぶっていたようだ。

それより前、アメリカ本国は民政局が主導するGHQのリベラル政策を危惧するとともに、パージ(公職追放)の緩和や再軍備を認めないマッカーサーへの苛立ちを強めていたが、吉田はそれを察知できなかった。

 25年6月、アメリカ本国で講和問題を担当する米国務省顧問のダレスが来日したときのことだ。面会した吉田は言った。

 「日本は民主化と非武装化を実現し、平和愛好国となり、さらに世界世論の保護に頼ることによって、自分自身の力で安全を獲得することができる」

 ダレスは呆れた。

東西冷戦の真っ只中で、「世界世論の保護」など夢物語である。

日本の政治リーダーがこんな認識でいる限り、早期講和など論外だと思ったのではないか。

 ダレスが不信感を抱いたまま帰米すれば、主権回復はさらに遠のいただろう。

だが、ここで昭和天皇が動いた。

ダレスと接触していた式部官長の松平康昌から事情をきいた昭和天皇は、松平を通じてダレスに、口頭でメッセージを伝えたのだ。

 -陛下は、パージの緩和により経験豊かな人材が発言できるようになれば、日米双方の国益に好ましい結果をもたらすとお考えのようです。

そうすれば、米軍の基地継続使用問題なども、日本側からの自発的申し出で解決されるかもしれません-

 パージの緩和により現実主義的な保守政治家らが復権することは、ダレスも考えていたことだ。

ダレスは昭和天皇の潜在的影響力に期待し、このメッセージを「(来日の)もっとも重要な成果」と受け止めた(※3)。

 昭和天皇もマッカーサーを信頼していたが、吉田ほどべったりではなかった。

むしろ、対日政策の主導権がマッカーサーの手から離れつつあることを、読み取っていたのだろう。

吉田のエラーを、昭和天皇がカバーしたといえる。

 以後、このメッセージがきっかけの一つとなり、ダレスと吉田との講和交渉が本格化することとなった。

そしてその頃、朝鮮半島で起きた非常事態が、日本の運命を劇的に変えることになる--。

(社会部編集委員 川瀬弘至 毎週土曜、日曜掲載)

(※1) 民主自由党は昭和23年3月、戦前の立憲政友会の流れをくむ日本自由党と、片山、芦田両内閣に反対する民主クラブなどが合同して結成され、吉田茂が総裁を務めた。

その後、25年に自由党となり、30年の保守合同で自由民主党となった

(※2) マッカーサーが在任期間中に面会した日本人は16人しかいないが、吉田とは76回、昭和天皇とは11回会見した

(※3) ダレスへの天皇メッセージをめぐっては、「象徴天皇」の枠組みを超えた二重外交であるとの批判もあるが、吉田に対するダレスの不信感を緩和したという意味で、吉田の講和交渉を補完する役割を果たしたとする評価も高い

【参考・引用文献】

〇竹内桂著「中道政権期の三木武夫」(明治大学院「政治研究論集」41号収録)

〇大森彌著「第四八代 吉田内閣」(林茂ら編「日本内閣史録5」〈第一法規出版〉収録)

〇秦郁彦著「裕仁天皇五つの決断」(講談社)

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