第220回 マッカーサー離日 日本再建の功罪 そして老兵は消え去った

昭和天皇の87年

日本再建の功罪 そして老兵は消え去った

第220回 マッカーサー離日

桜の散りかけた昭和26年4月15日、東京・赤坂の米国大使館に、昭和天皇の姿があった。

向かい合って座るのは、4日前に連合国軍最高司令官を解任され、私人となったマッカーサーである。

昭和天皇は、《マッカーサーに御告別のお言葉を賜い、来日以来五年八箇月にわたる日本再建への努力と日本国民への好意に対し謝意を表される》

(昭和天皇実録40巻28頁)

昭和天皇の「謝意」は、儀礼以上のものだっただろう。

来日当初、米国世論やオーストラリア政府などが天皇の訴追を求めていたことはすでに書いた通りだ。

占領統治に天皇の権威が必要だったとはいえ、マッカーサーが国際世論に屈せず、皇室制度の存続に果たした功績は決して小さくない。

× × ×

一方、マッカーサーを解任に追い込んだ朝鮮戦争は、日本にとっては僥倖(ぎょうこう)となった。

共産勢力の脅威を再認識したアメリカが対日講和を急ぎ、主権回復の日がぐんと近づいたからだ。

朝鮮戦争の勃発後、マッカーサーは共産党機関誌「アカハタ」の停刊を命じるとともに、マスコミ、重要産業、労働組合、政府機関から共産党員やシンパらを追放するレッド・パージを指令。

その半面、保守政治家らは公職追放を順次解除され、のちの戦後復興の舵取り役となる(※1)。

25年8月には、朝鮮戦争に動員された在日米軍の穴を埋める形で警察予備隊令が公布。

のちの自衛隊につながる再軍備の道が開けた。

何より大きかったのは景気の回復だ。

米軍が大量の軍需品などを買い付けたため、日本経済は朝鮮特需に沸いた。

× × ×

昭和天皇とマッカーサーが会見した翌日、26年4月16日の朝、米国大使館から羽田飛行場までの沿道は20万人以上の群衆で埋まり、マッカーサーを乗せた車に日の丸と星条旗の小旗が打ち振られた。

礼砲のとどろく飛行場には、首相の吉田茂をはじめ政府高官らが居並び、アメリカへ飛び立つ銀色の大型機を見送った。

新聞各紙が、歯の浮くような賛辞を載せる。

「八千万国民の感謝と敬慕を一身にあつめ、新生日本を慈しみの手で育てゝくれたダグラス・マッカーサー元帥とお別れ…」(16日の読売新聞夕刊)

「マ元帥の五年八ヵ月間における偉大な業績は、日本人の心からの惜別感に現われている。それは日本人の『心服』を意味する…」(17日の毎日新聞)

「日本のために心を砕いた元帥との別離の瞬間、(見送りの列から)バンザイの声がわき上った…」(同日の朝日新聞)

だが、見送りの列に昭和天皇の姿はなかった。

前日に別れを告げ、それで十分だと思ったのだろう。

マッカーサーは米国大統領に従う軍人だ。

昭和天皇は、日本国の天皇であった。

その1カ月後、昭和天皇を、大きな悲しみが襲う--。

(社会部編集委員 川瀬弘至 毎週土曜、日曜掲載)

(※1) GHQによる追放指令は一切の国内法に優先し、昭和25年のレッド・パージでは、1万人以上の共産党員らが失職したとされる。

一方、戦争責任を問われた旧軍人や保守政治家らについては、同年10月13日に約1万人の第1次追放解除が発表されたのをはじめ、翌26年には25万人以上が追放解除された

【参考・引用文献】

〇宮内庁編「昭和天皇実録」40巻

〇大森彌著「第四九代 第三次吉田内閣」(林茂ら編「日本内閣史録5」〈第一法規出版〉収録)

〇「実録昭和史3・日本再建の時代」(ぎょうせい)

〇NHK名作選「マッカーサー元帥 帰米」(NHKアーカイブス)

〇昭和26年4月16日の読売新聞、17日の朝日新聞、毎日新聞

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