第222回 主権回復(2) 「これは復讐の条約ではない」

昭和天皇の87年

「これは復讐の条約ではない」- そして星条旗は静かに降ろされた

画=筑紫直弘
画=筑紫直弘

第222回 主権回復(2)

1951(昭和26)年9月、米サンフランシスコのオペラ・ハウスに、世界52カ国の代表が集まった。

日本の主権回復に向けた、対日講和条約を審議するためである。

各国代表が次々に賛同の演説を行い、最後に登壇したのは日本全権、吉田茂だ。

同月7日の夜、吉田は朗々とスピーチした。

 「この平和条約は、復讐(ふくしゅう)の条約ではなく、和解と信頼の文書であります。

日本全権はこの公平寛大なる平和条約を欣然受諾致します」

× × ×

 同年1月以降、吉田は米国務省顧問のダレスと、講和条約の交渉を積み重ねてきた。

だが、必ずしも順調だったわけではない。

東西冷戦が深刻化し、アジアで共産勢力が拡大していた頃だ。

ダレスは日本の再軍備を求め、吉田は「経済的に耐えられない」として反対した。

一方、吉田が将来の沖縄返還を求めたものの、ダレスは相手にしなかった。

 紆余曲折の末、条約案がまとまったのは7月頃である。

戦勝国が日本への賠償請求権をほとんど放棄するという、比較的寛大な条件が盛り込まれた半面、

日本は(1)朝鮮半島、台湾、南洋諸島(委任統治領)における権利の放棄

(3)千島と南樺太の領土喪失

(4)琉球諸島と小笠原諸島を米国信託統治領とする提案への同意-を条件付けられた(※1)。

 国内では、賛否の議論が起こる。

現実問題として、まずは米英など西側諸国との講和を優先するしかなかったが、左派的な知識人らはソ連を含む全面講和を主張。

同時に締結される日米安全保障条約にも反対論が巻き起こった。

しかし吉田は、真の評価は「後世史家の批判に俟(ま)つ」とし、ぶれることなく講和への道を突き進んだ。

 そして迎えたサンフランシスコ講和会議。吉田のスピーチは続く。

 「日本はその歴史に新しい頁をひらきました。

われわれは国際社会における新時代を待望し、国際連合憲章の前文にうたつてあるような平和と協調の時代を待望するものであります」

 翌日、ソ連などを除く49カ国が講和条約に調印(※2)。

発効は翌27年4月28日で、《これにより日本国と連合国との戦争状態は終了し、連合国により日本国及びその領水に対する日本国民の完全な主権が承認される。

天皇は午後十時三十分よりラジオにて条約発効の実況中継を皇后と共にお聞きになる》

(昭和天皇実録40巻158頁)。

 ついに訪れた雪解けを、昭和天皇は詠んだ。

 国の春と 今こそはなれ 霜こほる 冬にたへこし 民のちからに

 この日、皇居の向かいにあるGHQ本部から、星条旗が静かに降ろされた--。

(『昭和天皇実録』取材班キャップ 川瀬弘至 毎週土曜、日曜掲載 来週からは「皇太子(上皇さま)ご訪欧・ご結婚」編を連載します)

(※1) このほか、日本が主権国として個別的自衛権と集団的自衛権を有することも承認された

(※2) 講和条約に調印しなかったのはソ連、ポーランド、チェコスロバキアの共産圏3カ国。

国共内戦で政府が二つに分かれた中国は講和会議に招聘(しょうへい)されなかった。

韓国も参加を求めていたが、そもそも韓国は日本と戦争していないため認められなかった

【参考・引用文献】

〇外務省条約局法規課「平和条約の締結に関する調書VII」(日本外交文書収録)

〇日本外交文書「サンフランシスコ平和条約-対米交渉」(外務省)

〇大森彌著「第四九代 第三次吉田内閣」(林茂ら編「日本内閣史録5」〈第一法規出版〉収録)

〇吉田茂著「回想十年〈3〉」(新潮社)

〇宮内庁編集「昭和天皇実録」40巻158ページから引用

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