第225回 皇太子ご成婚 テニスコートの恋に元家族ら反発

昭和天皇の87年

テニスコートの恋に元華族ら反発 天皇は皇太子妃を祝福した

画=筑紫直弘

第225回 皇太子ご成婚

長野県軽井沢のテニスコートで、皇太子(上皇さま)は、大粒の汗をかかれていた。

昭和32年8月18日、テニス好きの避暑客らが企画したダブルスのトーナメント大会。
皇太子のペアは3回戦まで勝ち進まれたが、次は強敵だった。

どんなに強く打ち込んでも、相手コートの女性に返されてしまうのだ。 2時間にわたる熱戦は、第1セット6-4、第2セット5-7、第3セット1-6で皇太子ペアの逆転負け。

皇太子は、しなやかながら粘り強くプレーする女性に、舌を巻かれたことだろう。

 女性の名は正田美智子、のちの皇后(上皇后さま)である。

 この対戦がきっかけとなり、二人は帰京後もテニスをされるようになった。

紅葉の色づく頃には、皇太子も運命の糸を意識されていたようだ。

翌33年2月、皇太子妃の選考委員を務める小泉信三(元慶應義塾塾長・東宮職参与)に、こう言われたという。

 「この人も選考対象に入れてください」

 皇太子妃選びは、数年来の国民的関心事だ。

新聞が初めて報じたのは昭和26年7月。

その2年後に皇太子が外遊から帰国されると、宮内庁内部の選考も本格化する。

しかし、順調ではなかった。

元華族や学習院出身者を中心に、適齢期の女性を次々にリストアップしても、戦後の風潮を反映してか、噂にのぼると他家との結婚を急ぐようなケースも相次いだ。

 選考が難航する中、聖心女子大の出身者に、またとない女性がいると聞きつけたのは小泉である。

外国語外国文学科を首席で卒業したばかりで、健康も容姿も申し分ない。

小泉は二人を引き合わせるチャンスをうかがった。

軽井沢のテニス大会に皇太子が参加されたのも、小泉の配慮だったという(※1)。

× × ×

 一方、新たな候補の出現に、皇室と関わりの深い常磐会から反対の声が上がった(※2)。

皇太子妃は元華族の子女から選ばれると、誰もが思っていた時代だ。

正田家は実業界の名門ではあっても、いわば“平民”であり、学習院以外であることがネックとなった。

 困惑したのは、正田家も同じだ。

父の英三郎は小泉の説得を断り、母の富美子は娘に長期の海外旅行をさせた。

是が非でも、あきらめてもらおうと思ったのである。

 しかし皇太子は、固い決心を抱かれていたようだ。

 昭和天皇も二人を応援した。

 昭和33年8月15日、《宮内庁長官宇佐美毅の拝謁を皇后と共に受けられ、皇太子と正田美智子との結婚の話を進めることをお許しになる》(昭和天皇実録43巻193頁)

 同年の秋、皇太子は帰国した美智子さまに電話で思いを告げられ、11月27日に婚約が成立する。

× × ×

 ご成婚は翌34年4月10日。

前夜の雨が嘘のように晴れ上がり、青空に向かって数千羽のハトが舞い上がった。

そのもとで《午前十時より賢所において、皇太子結婚式中、結婚の儀が行われる。

(中略)皇太子及び皇太子妃美智子が賢所において拝礼し、皇太子が告文を奏した後、神酒を受ける》(昭和天皇実録44巻32頁)

 結婚の儀には、首相はじめ各界代表者らが参列し、かつて皇太子に英語などを教えた米人家庭教師のバイニングや、目に涙をにじませる小泉の姿もあった。

 朝見の儀で昭和天皇は、二人にこんな言葉をかける。

 「互に相むつみ、心を合わせて国家社会に貢献することを望みます」

× × ×

 午後2時30分、いよいよ二人が一般国民の前に姿を見せられる。

パレードがはじまったのだ。

 6頭立て4頭引きの儀装馬車に乗られた皇太子は、胸に大勲位菊花章をつけた燕尾服。

左隣の皇太子妃は、ほぼ純白のローブ・デコルテにストール・マントをまとわれ、頭上には千余のダイヤをちりばめたティアラが輝いている。

警視庁騎馬隊の先導で儀装馬車が二重橋をわたると、黒山の群衆から歓呼の声が上がり、日の丸の小旗が一斉に打ち振られた。

画=筑紫直弘
画=筑紫直弘

 この日、皇居から東宮仮御所まで8・6キロのパレードコースを埋めた沿道の群衆は警視庁調べで58万人、消防庁調べで83万人。

このほか1500万人もの国民がテレビにくぎづけになったといわれる。

 昭和天皇は詠んだ。

 皇太子の 契り祝ひて 人びとの よろこぶさまを テレビにて見る

 群衆の歓声に、皇太子は手を振られ、皇太子妃は笑顔でこたえられた。

だが、皇室という別世界での新生活を前に、不安も抱かれていただろう。

 果たしてその不安は、現実になる。

“平民”出身の皇太子妃を快く思わない元華族らの嫌がらせが、結婚後も続いたからだ。

悪意に満ちた噂も流され、二人の心を苦しめた。

正仁親王(常陸宮さま)と皇太子妃が聖書の話をされ、それを知った昭和天皇が激怒したと伝えられる「宮中聖書事件」も、その一つだ。

のちに噂を知った昭和天皇は、こう嘆息したという。

 「このようなことは、事実がないばかりでなく、心に思ったことさえなかった」

 元華族らと異なり、国民は“ミッチーブーム”にわいた。

昭和天皇も国民とともに、皇太子妃を祝福していたのである--。

(元『昭和天皇実録』取材班キャップ 川瀬弘至 毎週土曜、日曜掲載)

(※1) 美智子さまが皇太子妃候補になられるまでの経緯や、小泉信三がどこまで関与したかについては諸説ある

(※2) 常磐会とは学習院女子中・高等科卒業者の同窓会で、当時は東宮教育参与の松平信子(秩父宮妃の母)が会長を務めていた

【参考・引用文献】

〇宮内庁編「昭和天皇実録」43巻、44巻

〇昭和33年11月発売の「週刊サンケイ・皇太子御婚約記念特別号」、「サンデー毎日・12月7日増大号」、「週刊朝日・12月7日増大号」

〇昭和34年4月10日の産経新聞夕刊、同11日の産経新聞朝刊

〇高橋紘著「人間 昭和天皇〈下〉」(講談社)

〇河原敏明著「美智子妃」(講談社)

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