第229回 喜びと悲しみと 皇太子妃への批判

昭和天皇の87年

皇太子妃への批判 そのとき皇后も、心に深い傷を負っていた

第229回 喜びと悲しみと

 安保闘争に揺れた昭和35年、皇室に、新たな命が誕生した。

 2月23日《午後四時十五分、皇太子妃が宮内庁病院において親王を出産する。

天皇は、御産所参候の宮内庁次長瓜生順良より宮内庁長官・侍従を経て、直ちに皇后と共に報告を受けられる》

(昭和天皇実録44巻135頁)

 このとき、昭和天皇は58歳。待望の皇孫である。

 25日《午前、宮内庁病院に皇后と共にお出ましになり、二階御休所において皇太子と御対面になる。

ついで東宮侍医長佐藤久・宮内庁御用掛小林隆の拝謁を受けられ、経過説明をお聞きになる。

それより白衣をお召しになり御静養室に皇太子妃を見舞われ、ついで皇孫と初めて御対面になる》(同巻136頁)

× × ×

 29日は命名の儀。

昭和天皇は世継ぎとなられる親王に、徳仁(なるひと)の名と浩宮(ひろのみや)の称号をおくった。

いまの天皇陛下の御名である。

出典は儒教の経書「中庸」。

東洋学泰斗の宇野哲人らが数種類選んだ中から、《皇后・皇太子・同妃と御相談の上、御決定になる》(同巻138頁)

 3月12日、皇太子妃(上皇后さま)は徳仁親王(天皇陛下)を抱き、宮内庁病院を退院された。

病院の玄関前で車の窓を開け、報道陣にほほ笑む様子が新聞各紙の1面を飾る。

お二人の健康そうな様子に、国民は拍手喝采だ。

 ところが、元華族からは思いもかけぬ声が漏れた。

 「お宮参りさえすまないうちに写真を撮らせるとは何ごとか」

「お子さまが風邪でもひかれたらどうなさるのか」…

 皇男子出産の大任を果たされても、批判や中傷が止まらなかったのだ。

皇太子妃は、黙って耐えるしかなかった(※1)。

× × ×

 日本国憲法の施行後も、皇族が激務であることに変わりはない。

出産7カ月後の9月22日、皇太子と皇太子妃は昭和天皇の名代として、訪米の旅に出られた。

安保闘争で米大統領の来日が中止され、日米の国民感情にきしみも見られた直後である。

皇太子夫妻のご訪米は両政府が強く望んだものだった。

 お二人は16日間で全米7都市を回るハードスケジュールをこなし、同年11月12日~12月10日にはイラン、エチオピア、インド、ネパールを歴訪、国際親善に務められた。

 それでも、宮中周辺の冷たい空気は変わらない。

昭和天皇は皇太子妃を支持していたが、香淳皇后の理解がなかなか得られなかったとも伝えられる。

国民とともにあろうとする昭和天皇は、新しい時代にふさわしい皇室のあり方を考え、自ら実践していた。

一方で香淳皇后は、年齢的な問題もあり、順応できなかったのではないか。

 実は香淳皇后も、心に深い傷を負っていたのである。

× × ×

 徳仁親王がお生まれになった年の晩秋、昭和35年11月のことである。

昭和天皇の長女で、東久邇盛厚に嫁いだ成子(22年に皇籍離脱)が病に倒れ、東京第一病院に入院した。

手術したものの結果は思わしくなく、宮内庁病院に転院。末期のがんだった。

 成子は、苦境に屈しない女性だった。

東京大空襲の最中に防空壕で第一子を出産し、戦後に皇族としての特権を失ってからも、内職で家計を支えながら5人の子供を育てた。

旧皇族の中で、皇太子妃に深い理解をよせていたのも成子だ。

34年6月には皇太子ご夫妻と昭和天皇、香淳皇后を私邸に招き、兄弟姉妹による夕食会を開いている。

 その成子が、もはや治療の方法がないと診断されたとき、心の中で何かが崩れたのか、香淳皇后に異常な言動がみられるようになる。

病室を見舞っていた香淳皇后は、「施療師」と称する男を連れてきて、怪しげな“治療”をはじめたのだ。

未消毒のガーゼを患部にあて、電気を流すという方法だった。

 仰天した侍医の杉村昌雄が制止しようとすると、香淳皇后は声を震わせて抗議した。

 「あの病気、もう絶対になおらんといったではないか。ところがあの施療師は、少しはなおるという。おぼれるものは、わらをもつかむというが、それがわからないのか」

 かつて、そばにいるだけで周囲をなごませた温和な皇后の姿は、このときはなかった。

× × ×

 36年7月23日、成子は死去する。

享年35。あまりに早すぎる旅立ちだった。

 昭和天皇が嘆き悲しんだのは言うまでもない。

死去の数日前から、成子を撮影した8ミリ映画などを何度もみる様子が、昭和天皇実録に記されている。

同時に昭和天皇は、尋常でないほど悲痛な様子の香淳皇后を心配し、気遣ったことだろう。

 悲しみは続く。38年3月、皇太子妃が流産されたのだ(※2)。

皇室は、大きな試練を迎えていた。

 このとき、精神的に追い詰められた皇太子妃を支えたのは、すくすくと成長される徳仁親王と、皇太子の深い愛情だ。

流産から7カ月後の38年10月、皇太子は公務の合間をぬい、皇太子妃と栃木県奥日光へプライベートの旅行をされる。

短期間でも、雑音のない自然の中で2人で過ごしたいと、皇太子自身が企画されたものだった。

 皇后を気遣う天皇と、皇太子妃を慰められる皇太子-。

「美智子さまに笑顔が戻られたのは、そのご旅行からお帰りになってのことだった」と、東宮侍従の浜尾実が書き残している--。

(『昭和天皇実録』取材班キャップ 川瀬弘至 毎週土曜、日曜掲載)

(※1) いわゆる「窓開け事件」は、カメラのフラッシュが乳児の目に悪いと気づかわれる皇太子妃が、「窓を開けますから、フラッシュはたかないでください」と要望し、職員が窓を開けたのが真相とされる

(※2) 当時、皇太子妃の私生活を興味本位で書き立てる週刊誌報道が目立ったのも、流産につながる精神的ショックの要因だったとされる

【参考・引用文献】

〇宮内庁編「昭和天皇実録」44、45巻

〇浜尾実著「皇后 美智子さま」(小学館)

〇河原敏明著「美智子妃」(講談社)

〇高橋紘著「人間 昭和天皇〈下〉」(講談社)

〇伊藤之雄著「昭和天皇伝」(文芸春秋)

〇酒井美意子著「元華族たちの戦後史」(宙出版)

〇杉村昌雄著「天皇さまお脈拝見」(新潮社)

〇浜尾実著「皇后 美智子さま」(小学館)

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