第232回 ベルギー国王の招待状 世界に天皇を見せたいー史上初の外遊へ高まる期待

昭和天皇の87年

世界に天皇を見せたい-史上初の外遊へ高まる期待

第232回 ベルギー国王の招待状

 「お上の御風格も世界の人に見せてやりたい…」

 侍従の入江相政が日記にこう書き込んだのは、昭和35年の年末である。

 前年に結婚された皇太子(上皇さま)夫妻がアメリカやインドなどを訪問し、友好親善に尽くされたことはすでに書いた。

復活日本の平和方針をアピールする上で、皇室外交が果たす役割は大きい。

入江は、昭和天皇が「段々お年を召してしまふ」前に、外遊の機会が訪れることを待ち望んだ。

 それから10年、端緒をつくったのは高松宮妃だ。

大阪万博で来日したベルギー国王ボードワン一世の弟、アルベール公に、国王から招待状を送ってほしいと持ちかけたのである。

ボードワン一世は昭和39年に来日している。

その答礼という形なら、大義名分も立ちやすいだろう。

 昭和天皇は意欲的だった。

45年7月22日付でボードワン一世から招待の親書が届くと、《外国旅行を可能とする機会が到来した場合には、皇后と共にブリュッセルを訪問できることを期待したい旨の答簡を発せられる》

(昭和天皇実録49巻157頁)

 以後、外務省と宮内庁が水面下で協議し、昭和天皇と香淳皇后の外遊が決定したのは46年2月である。

公式の訪問国はベルギー、イギリス、西ドイツの3カ国。

ほかにオランダとデンマークに立ち寄り、日程は同年9月27~10月14日の18日間とされた(※1)。

× × ×

 二千年に及ぶ皇室の歴史で、天皇が海外の土を踏むのは初めてである。

昭和天皇は皇太子時代、およそ半年にわたり欧州各国を歴訪した経験があるが、先の大戦を経たいま、天皇として海を渡ることに、特別の思いがあったに違いない。

 ただ、史上初の天皇外遊には、さまざまな障害もあった。

 一つは、天皇の「政治利用」だと反発する革新勢力の妨害活動だ。

外遊が検討された昭和45(1970)年は、70年安保闘争の年でもある。

ゲバ棒を手にした中核派、革マル派などは「訪欧阻止」「天皇襲撃」を叫び、出発直前の46年9月25日には中核派4人が皇居内に乱入する事件も起きた(※2)。

 もう一つは、訪問国から外れたアメリカの対応である。

外遊日程が確定したあとになって、「天皇の海外第一歩はアメリカで」と、強引に割り込んできたのだ。

このため初日の予定が変更され、給油で着陸するアラスカ・アンカレジで昭和天皇とニクソン大統領との会談が行われることになった。

 このほか、訪問先で元軍人らによる抗議活動も予想されたが、友好親善に尽くそうとする昭和天皇の決意は揺るがない。

出発の日は雲ひとつなく晴れ上がり、天も昭和天皇に味方した(※3)。

 ときに昭和46年9月27日午前9時26分、外遊中の国事行為を代行される皇太子をはじめ、首相、衆参両院議長、最高裁長官らが羽田空港で見送る中、昭和天皇を乗せた特別機が、青空に向けて飛び立った--。

(『昭和天皇実録』取材班キャップ 川瀬弘至 毎週土曜、日曜掲載)

(※1) フランスとスイスにも休養で滞在し、当初の公式・非公式訪問は7カ国に上った。

首席随員は外相の福田赳夫で、宮内記者会を中心に71人の記者団も同行することになった

(※2) 天皇訪欧阻止を叫ぶ中核派の活動家4人が皇居坂下門の警戒線を突破して乱入し、発煙筒を投げるなどした事件(第1次坂下門乱入事件)。

昭和46年9月25日正午前、1台の車が坂下門に突入、警視庁丸の内署の見張所に発煙筒を投げつけて警戒線を突破した。

直ちに皇宮護衛官が車両阻止柵により車を停止させたものの、中から白いヘルメットをかぶった活動家4人が飛び出し、発煙筒を投げたりヌンチャクを振り回したりして抵抗、皇居内に乱入した。

4人はその後、宮内庁庁舎に向かったものの、駆け付けた皇宮護衛官らに中央玄関で取り押さえられた

(※3) 出発前日までは台風の影響で豪雨だった

【参考・引用文献】

〇入江為年監修「入江相政日記」(朝日新聞社)3巻

〇高橋紘著「人間 昭和天皇〈下〉」(講談社)

〇宮内庁編「昭和天皇実録」49巻、50巻

〇昭和46年9月25日の読売新聞夕刊

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