第233回 平和への旅(1) 米大統領が空港で”お出迎え”

昭和天皇の87年

米大統領が空港で“お出迎え” 天皇の風格、海を越える

画=筑紫直弘

画=筑紫直弘

第233回 平和への旅(1)

1971(昭和46)年9月26日の夜、アメリカ最北の州、アラスカのアンカレジ

米政府高官や歓迎の市民ら約5000人が見守る空軍飛行場に、日本航空の特別機が着陸した。

やがて機体のドアが開き、姿をみせた昭和天皇と香淳皇后がゆっくりとタラップを降りる。

階下で待ち受けるのは、米大統領リチャード・ニクソンその人だ。 

世界最強国の大統領が、他国の要人を空港まで出迎えるのは異例中の異例である。

両国国歌の吹奏と礼砲が響きわたる歓迎式典で、ニクソンは言った。

「こよい、陛下は日本の古い歴史の上で、外国の土を踏まれた最初のご在位中の天皇となられました」

× × ×

全世界でおよそ8000万人が犠牲になったとされる第二次世界大戦の終結から四半世紀あまり、敗戦国日本の国家元首であった昭和天皇が戦勝各国を歴訪した1971年の外遊は、

戦後の国際情勢の激変ぶりを確(しか)と知らしめたといえるだろう。

とりわけその初日、ニクソン自ら友好ムードを演出してみせた背景には、「2つの中国」問題があった。

それまでアメリカは台湾の中華民国を承認し、大陸の中華人民共和国とは対立していたが、この年の7月、ニクソンが中共を訪問すると電撃的に発表、

同盟国の日本に何の相談もないまま米中接近に舵を切ったのだ。

寝耳に水の日本政府は不信感を強め、日米関係は一気にぎくしゃくした。

いわゆるニクソン・ショックである(※1)。

日本の世論を対米不信に走らせてはアメリカのアジア外交は成り立たない。

ニクソンは、昭和天皇に破格の交情を示すことで、日本の国民感情を和らげようとしたのだろう。

× × ×

歓迎式典が行われた飛行場周辺は、大統領と天皇の歴史的なツーショットを一目見ようと黒山の人だかりである。

通訳を務めた真崎秀樹が手記に残した言葉を借りれば、「ピーピーキャーキャーの大騒ぎ」だ。

しかしニクソンは、それが昭和天皇に向けられた拍手喝采と心得え、自ら観衆に手を振るようなことはしなかった。

真崎は昭和天皇に、そっと言った。

「お上、帽子をお振りくださったら、観衆はみんな喜ぶことでございましょう」

昭和天皇が帽子をとって振る。

観衆は「ますます大きな声でピーピーキャーキャー大騒ぎ」。

アンカレジ滞在は給油中の2時間足らずだが、日米親善に大きな成果を上げたのは言うまでもない(※2)。

同日午後11時51分、大統領と「ピーピーキャーキャー」に見送られ、昭和天皇の特別機が飛び立つ。いよいよヨーロッパへ向かう夜空には、幻想的なオーロラも出現した。

日本を出国する日、「“天皇晴れ”空もお祝い」と報じたサンケイ新聞の翌日の紙面に、「夢のオーロラも祝福」の大見出しが踊った。

× × ×

翌27日の夕刻、特別機は2番目の訪問国、デンマーク・コペンハーゲンに到着した。

公式訪問ではないものの、国王フレデリック九世とイングリッド王妃がタラップの下まで出迎え、両国国旗が折り重なる空港は友好ムード一色となった。

画=筑紫直弘
画=筑紫直弘

だが、ここで事件が起こる。

天皇旗を掲げたお召自動車が用意され、空港から宿泊所のロイヤル・ホテルに出発する際、歓迎の市民に混じって数人が車列に飛び出し、ビラを散布したのだ。

警官隊が取り押さえて2人を逮捕すると、日本人の過激派である。

ビラには「日本がファシスト国家になったのも天皇の責任」などと拙(つたな)い英語で書かれ、クギを無数にさしたゲバ棒まで持っていた。

いびつな日本の極左活動を、浮き彫りにした一コマといえよう(※3)。

× × ×

一方、友好を求める昭和天皇の外遊日程には、何の影響もなかった。

2日間のデンマーク滞在に続き、向かった先はベルギー・ブリュッセル。

正式に昭和天皇を招待した最初の公式訪問国であり、同国の歓迎ぶりは熱烈を極めた。

空港には国王ボードワン一世をはじめ王族、首相、外相、上下両院議長らが勢ぞろいし、軍楽隊による君が代吹奏と、51発もの礼砲がとどろく。

慣例上21発とされる最上位礼砲数の、実に2倍以上だ。

続いて昭和天皇が無名戦士の墓に献花した際には、行き帰りのお召自動車に60騎の儀仗槍騎馬隊が付き従った。

日本の首相が訪欧してもこうはならない。

皇室があるからこそ実現した、荘厳華麗な王城絵巻である。

ブリュッセルの市庁舎広場では、伝統のオメガング舞踏が催された。

神聖ローマ帝国のカール大帝が同地を訪問した際の、歓迎行事を再現したベルギー最大の祭りのひとつだ。

本来は毎年7月に行われるのを、特別に実施したのである。

29日夜の晩餐会。

ボードワン一世は歓迎スピーチで日本の驚異的な経済復興を称賛しつつ、こう言って杯を傾けた。

「陛下の未来への旅とも申すべき今回の御旅程の中でベルギーが選ばれた地位を占めたという事実は、我々を名誉の喜びにみたすものであります」

× × ×

ベルギーでの日程を終え、10月2~4日はフランス・パリに滞在。

50年前、皇太子時代の訪欧ではお忍びで散策も楽しみ、エッフェル塔で婚約者にお土産を買った思い出の地だ。

その婚約者、香淳皇后がいまはそばにいる。

昭和天皇は歓迎行事の合間をぬい、ルーブル美術館などの名所見学を夫婦で満喫した。

同月5日、昭和天皇はイギリス・ロンドンに向かう。

ヨーロッパ最大の王国であり、日露戦争時の同盟国である。

だが、そこで待っていたのは、これまでのような歓迎ムード一色ではなかった……。

(『昭和天皇実録』取材班キャップ 川瀬弘至 毎週土曜、日曜掲載)

(※1) アメリカでは1955年以降、日本製の安価な綿製品の輸入による貿易摩擦が起きており、自主規制に応じようとしない日本の佐藤栄作政権にニクソンが激怒、あえて訪中の計画を知らせなかったとされる。

このほかニクソンは同年8月、ドルと金の兌換(だかん)停止を発表。

日本はもちろん世界経済に深刻な影響を与えた(ドル・ショック)

(※2) 歓迎式典の様子は日本のテレビでも衛星中継された

(※3) 日本国内では当時、過激派によるテロ事件が頻発し、昭和44年の東大安田講堂事件、45年の日航機よど号ハイジャック事件、46年の成田闘争激化、47年の連合赤軍あさま山荘事件-などが相次いだ

【参考・引用文献】

〇昭和46年9月27~10月5日のサンケイ新聞、朝日新聞、毎日新聞、読売新聞

〇宮内庁編「昭和天皇実録」50巻

〇真崎秀樹著「側近通訳25年 昭和天皇の思い出」(読売新聞社)

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