第239回 最後の参拝 : 天皇は何故、靖国神社に参拝しなくなったのか

昭和天皇の87年

天皇はなぜ、靖国神社に参拝しなくなったのか

第239回 最後の参拝

 

天皇晴れ、という言葉がある。昭和天皇が行幸するときは、不思議とよく晴れるのだ。

地方巡幸で傘が必要だったことはめったにない。

1971(昭和46)年の外遊でも、霧で有名なロンドンに青空が広がった。

だが、その日は冷たい雨が降っていた。

昭和50年11月21日、昭和天皇は、靖国神社に参拝した。

傘をさして境内を歩き、本殿で拝礼し、戦没者に深い祈りをささげる。

しんと静まる靖国の杜(もり)に、涙のような雨音が響いた。

× × ×

昭和天皇が天皇として初めて靖国神社を参拝したのは、即位礼から半年後の昭和4年4月。以後、例大祭や臨時大祭で香淳皇后とともに足を運び、戦前の参拝は20回を数える。

しかし、戦後は状況が一変した。

終戦3カ月後の20年11月に参拝したものの、翌年の例大祭に勅使を派遣しようとしたところ、GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)に「不適当」とされ、占領期は勅使の派遣もできなかった。

ようやく参拝が復活したのは主権回復後の27年10月から。

ところが、今度は国内の左派勢力などから政教分離と絡めた反対論が起こる

44年10月の靖国神社創立百年記念大祭で戦後7回目の参拝を果たした後は、行きたくても行けない状況が続いていた(※1)。

× × ×

50年11月の参拝は、終戦30周年にあたり靖国神社からの要望を受けたものだ。

昭和天皇は賛否両論の議論に配慮し、私的参拝の形をとったが、それでも左派勢力などからの批判はおさまらなかった。

昭和天皇実録が書く。

《この御参拝に対して、日本基督教協議会ほか六団体から宮内庁長官に参拝中止の要望書が提出され、また野党各党からは反対声明が出された。

さらには衆議院議員吉田法晴(日本社会党)から天皇の靖国神社参拝に関する質問主意書が国会に提出されるなど論議を呼んだ。

なお靖国神社への御参拝は、この度が最後となった》(53巻174頁)

戦没者の追悼には、静謐(せいひつ)な環境が欠かせない。

左派勢力からの批判に加え、60年以降は中国・韓国も内政干渉的な声明を出すようになり、

天皇として参拝できなくなった経緯が昭和天皇実録からもうかがえる。

しかも、この問題はのちに、思わぬ形で議論を呼ぶこととなる。

× × ×

昭和53~63年の宮内庁長官、富田朝彦が残したメモを日経新聞がスクープしたのは、平成18年7月20日である。

メモには、昭和天皇の晩年(昭和63年)の発言と推察される形で、こう書かれていた。

--私は 或る時に、(靖国神社に)A級が合祀されその上 松岡(洋右)、白取(白鳥敏夫)までもが 筑波は慎重に対処してくれたと聞いたが 松平の子の今の宮司がどう考えたのか 

易々と 松平は 平和に強い考があったと思うのに 親の心子知らずと思っている だから、私あれ以来、参拝していない それが私の心だ--

靖国神社に、いわゆるA級戦犯の14人が合祀されたのは昭和53年10月である。

その12年前、厚生省(当時)がA級戦犯の祭神名票を靖国神社に送付し、当時宮司だった筑波藤麿は「慎重に対処」して保留したが、53年に宮司となった松平永芳は合祀に踏み切った。

永芳は、最後の宮内大臣として昭和天皇の平和意思を支えた松平慶民の長男であり、昭和天皇は「親の心子知らず」として不快感を示した-というのが、メモの内容とされる。

明治2(1869)年に創建された靖国神社には、国家防衛に殉じた246万余の戦没者が祀られている。

だが、メモに登場する元外相の松岡と元駐伊大使の白鳥は、国家を危うくする日独伊三国同盟を強引に進めた張本人であり、戦死でも刑死でもなく病死だ。

靖国本来の趣旨とは異なるとして、昭和天皇が合祀に不快感を抱いたのは確かだろう。

とはいえ、この2人のために246万余の御霊が眠る靖国神社に参拝しないというのは、昭和天皇の行動としては考えにくい。

実は、合祀にあたり宮中側近らが懸念したのは、それが外部に漏れることだった(※2)。

昭和天皇も、A級戦犯の合祀そのものより、合祀によって賛否の議論が噴出し、戦没者の追悼に必要な静謐さが保てなくなったことを、嘆いていたのではないか。

むしろメモの内容からは、昭和天皇が晩年になるまで靖国の杜を思い、参拝を果たせないことへの苦悩や焦燥がうかがえよう。

× × ×

ところがメモの出現により、合祀そのものが参拝中止の原因だとする報道が先行する。

日経新聞がスクープした平成18年7月は、その翌月に予定されていた小泉純一郎首相(当時)の参拝が政治問題化していた時期だ。

以後、メモは参拝阻止の格好の材料となり、「政治利用」されることとなった。

現在でも毎年8月15日になると、どの閣僚が参拝したか、「公的」か「私的」かが、大きく報道される。

追悼に必要な静謐な環境への配慮は、皆無と言っていい。

それを昭和天皇は、どう考えることだろう--。

(『昭和天皇実録』取材班キャップ 川瀬弘至 毎週土曜、日曜掲載)

(※1) 靖国神社創立百年記念大祭の参拝で昭和天皇は、「国のため いのちさゝげし 人々を まつれる宮は もゝとせへたり」の和歌を詠んだ

(※2) A級戦犯の合祀にあたり、侍従次長の徳川義寛は靖国神社側に「一般にもわかって問題になるのではないか」と苦言を伝えた。

同神社は「外には公にしない」としたが、翌年に報道され、侍従長の入江相政は日記に、「朝刊に靖国神社に松岡、白鳥などの合祀のこと出、テレビでもいふ。

いやになつちまふ」とつづっている

【参考・引用文献】

〇所功著「靖国『公式参拝』のかたち」(月刊誌「Voice」平成15年8月号収録)

〇松本健一著「畏るべき昭和天皇」(毎日新聞社)

〇徳川義寛ら著「侍従長の遺言」(朝日新聞社)

〇入江為年監修「入江相政日記」5巻(朝日新聞社)

〇平成18年7月20日の日経新聞

〇月刊「テーミス」平成18年9月号

〇宮内庁編「昭和天皇実録」34、35、40、49、53巻

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