第240回  宮中のあつれき  皇居に「魔女」が現れた?!

昭和天皇の87年

皇居に「魔女」が現れた?! 女官追放と皇后の涙

画=筑紫直弘
画=筑紫直弘

第240回 宮中のあつれき

昭和52年7月17日、栃木県の那須御用邸に滞在していた昭和天皇は、《御用邸敷地内の三沢橋・千篠園新道周辺を御散策になる。

皇后も御一緒の御予定であったが、この日の朝、腰を痛められたため急遽お取り止めとなる》(昭和天皇実録54巻165頁) 昭和天皇実録の記述はこれだけだが、この日、香淳皇后はトイレで転倒し、腰椎を圧迫骨折した。

《腰を痛められた》程度ではなく、入院治療も検討されるほどの重傷である。

ところが侍従長の入江相政らは入院に反対し、宮内庁は「ギックリ腰」だと発表。

しばらく那須御用邸で安静に過ごすこととなった。

以後、香淳皇后の回復は遅れ、二人そろっての公務が制限されるようになる。

重傷を隠そうとした入江らの判断が、適切でなかったと言えなくもない。

 それより前、昭和40年代の終わり頃から、香淳皇后は物忘れなど高齢者特有の症状をみせるようになっていた(※1)。

激動の時代を皇后として支えた、さまざまな気苦労もあってのことだろう。

 そんな香淳皇后を、昭和天皇は誰よりいたわった。

 圧迫骨折する前、昭和天皇はよく、香淳皇后と那須を散策したが、玄関から出て皇后を振り返り、

「良宮(ながみや)、寒くないか」と声をかけ、

「いいえ、聖上(おかみ)、寒くはございません」と聞いて初めて、安心して歩き出すような気の配りようだった。

 昭和天皇の足指の爪には癖があり、それを切るのは侍医の役目だが、ある時、手指の爪も切ろうとしたところ、「これは良宮が切ることになっている」と言って切らせなかったこともある。

 晩年になっても、夫婦愛は変わらなかったのだ。

 一方、入江ら宮中側近の一部は香淳皇后に対し、昭和天皇ほど気遣ったとは言い難い。

いわゆる「魔女騒動」は、その典型だろう。

× × ×

 皇居に「魔女」が現れ、侍従らと対立するようになったのは昭和40年代前半である。

41年1月3日、入江は日記に書いた。

 「昨日、一昨日と相次いで魔女から(別の侍従に)電話。大晦日にだれが剣璽(けんじ)の間にはひつた、なぜ無断ではひつた、とえらい剣幕でやられたといふことだつた…」

 魔女の名は今城誼子。

香淳皇后が重用する女官である。

男子禁制とされた剣璽の間(※2)に侍従が無断で入ったため、魔女のごとき今城から猛抗議を受けた-ということらしい。

以後、入江の日記には魔女が度々登場する。

 同年1月10日「魔女のことを(侍従)次長が(皇后に)申上げた。

そしたら魔女が(侍従の)田中さんに怒つてきた」

 4月21日「皇后さま(の熱が)七度八分。お歯がもとらしいが魔女の一言で侍医にお見せにならない由」

 6月2日「次長の部屋で(女官長の)保科、(女官の)松園両氏と相談する。

困つたことである」……(※3)

 44年に入江が侍従長に昇格すると、魔女との対立が決定的になる

入江らが進める宮中祭祀の簡略化に、待ったがかかったからだ。

毎月行われる旬祭(※4)の親拝を五月と十月だけにし、あとは当直侍従が代拝することにしたところ、香淳皇后は「もつとお祭を大事に度数をふやした方がいゝ」と抗議した。

背後に今城がいると考えた入江が、45年の日記に書く。

 「(入江が皇后に)お上はお大事なお方、お祭りもお大事だが、お祭りの為にお身体におさはりになつたら大変と申上げる。

さうしたら驚いたことにそれでは私がやらうかとおつしやる。

無茶苦茶とはこの事。かうまで魔女にやられていらつしやるとは」…

× × ×

 魔女と陰口された女官の今城は、昭和4年に宮中に入り、昭和天皇の母、貞明皇后の女官を務めた。

貞明皇后は宮中のしきたりに厳格だ。

忠誠心の厚い今城も、規律や慣例を重視した。

貞明皇后の崩御後、香淳皇后の女官となったが、その厳格さゆえにほかの女官や侍従らの反感を買ったのではないか。

今城が香淳皇后に重用されたため、嫉妬も渦巻いたことだろう。

 宮中の伝統を重視する今城と、祭祀の簡略化を図る入江らとは、いわば水と油である。

入江と宮内庁長官の宇佐美毅は、今城の“追放”を画策し、46年の欧州歴訪の直前、今城は退官に追い込まれた(※5)。

 香淳皇后が嘆き悲しんだのは言うまでもない。

自ら筆をとり、今城にこんな手紙を書いている。

 「苦労をかけて気の毒でした。大宮様(貞明皇后)より伺つて居ました通り誠実な人でした事を証明します。

御上の御身を思ひよくお仕へ申し、私の為にも蔭になり日向になりよく尽してくれました。

この度御上にざんげんする者あり、残念なことですが退職させる様な事になりましたが、良き時期に再任します。外に居ても気持は今まで通り頼みます」

× × ×

なお、入江らは宮中祭祀の簡略化にあたり、高齢となった昭和天皇の健康問題を理由に挙げたが、それだけかどうか疑わしい。

 入江は侍従次長となった翌年の日記に、こんなことを書いている。

 「侍従次長といふのはいゝ役で四方拝も歳旦祭も関係が無いから本当に久々でのんびりした正月を迎へる」

 こんな意識では、自分が楽をしたいから簡略化を進めたと疑われても仕方ないだろう。

 一方、昭和天皇は宮中祭祀に熱心だった。

入江らは新嘗祭まで簡略化したが、昭和天皇はなかなか承知しなかった。

48年10月、入江が「十一月三日の明治節祭を御代拝に、そして献穀は参集所でといふことを申上げ」たところ、昭和天皇は「そんなことをすると結局退位につながる」とまで言い、親拝の意思を示している(※6)。

 天皇は古来、「国平らかに民安かれ」と祈る祭祀王であり、宮中祭祀は皇室の存在理由そのものといえる。

入江らには理解できなかったようだが、昭和天皇には分かっていたのだろう--。

(『昭和天皇実録』取材班キャップ 川瀬弘至 毎週土曜、日曜掲載)

(※1) 昭和47年の「入江相政日記」の年末所感には、「ヨーロッパの頃から(香淳皇后の物忘れなどが)そろそろだつたが、このごろはひどいことになつておしまひになつたらしい」との記述がある

(※2) 剣璽の間とは、三種の神器のうち天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)と八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)が安置してある部屋。

女官しか入れない天皇皇后の寝室の隣にあり、天皇以外、男子禁制の部屋とされる

(※3) 当時、入江らは今城が新興宗教にはまっていると疑っており、それが香淳皇后に悪影響を及ぼすと恐れていたとされる

(※4) 旬祭とは、毎月1、11、21日に宮中の賢所・神殿・皇霊殿で行われる祭典

(※5) 今城の退官には昭和天皇も賛同した。

欧州歴訪を控え、入江らと皇后が対立するのを憂慮したとみられる

(※6) 昭和天皇の苦言に対し、入江は「御退位などにならずに末長く御在位で国民の期待にお応へいたゞきたい、その為に軽いものはお止めいたゞくといふことを申上げ、お許を得る」と日記に書いている

【参考・引用文献】

〇宮内庁編「昭和天皇実録」54巻

〇入江為年監修「入江相政日記」4、5巻(朝日新聞社)

〇徳川義寛著「侍従長の遺言 昭和天皇との50年」(朝日新聞社)

〇高橋紘著「人間 昭和天皇」下巻(講談社)

〇杉村昌雄著「天皇さまお脈拝見」(新潮社)

〇河原敏明著「昭和天皇を苦悩させた宮中『魔女追放事件』の真実」(『現代』平成11年1月号所収)

〇八木秀次著「宮中祭祀廃止論に反駁する」(平成20年6月5日の産経新

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