大日本帝国最後の一週間(2): ポツダム宣言受諾か否か… 会議の最中、人類史上2発目の原爆が落とされた

【昭和天皇の87年】

ポツダム宣言受諾か否か… 会議の最中、人類史上2発目の原爆が落とされた

大日本帝国最後の一週間(2)

昭和20(1945)年8月9日未明に満洲を急襲したソ連軍の侵攻兵力は兵員157万人、火砲2万6100門、戦車・自走砲5500両、航空機3400機に上る。

ソ連の狙いは、日本が戦争をやめないうちに占領地を拡大し、既得権益化することだ。

満洲だけでなく樺太、千島、あわよくば北海道をも奪取しようという魂胆だった。

対する関東軍は兵員70万人ながら3割強は補充兵で、火砲1000門、戦車200両、航空機200機にすぎない。

かつて無敵といわれた戦力も、昭和18年以降は南方戦線の悪化で精鋭部隊が次々に引き抜かれ、“張り子の虎”と化していた。

戦争が長引けば長引くほど、極東の地図は赤く塗られていくだろう。

× × ×

昭和天皇が終戦の決意を固めたことを受け、最高戦争指導会議が始まったのは9日午前10時半過ぎである。

出席者は鈴木貫太郎首相、東郷茂徳外相、阿南惟幾(これちか)陸相、米内光政海相、梅津美治郎参謀総長、豊田副武(そえむ)海軍軍令部総長の6人。

冒頭、鈴木がこう切り出した。

「情勢上ポツダム宣言を受諾せざるを得ないと思うが、皆の意見を聞きたい」

外務省が昭和27年に編集した『終戦史録』によれば、鈴木の発言により「座は急に白けてしまい暫時沈黙が続いた」という。

受諾は「全日本軍の無条件降伏」を意味する。

それをあっさりと鈴木が口にしたことに、阿南ら軍部首脳は憮然(ぶぜん)とした。

沈黙を破ったのは、米内である。

「皆黙っておってもしょうがない。問題は、ポツダム宣言の無条件受諾か、条件を付けるかだ」

以後の議論の様子が、『終戦史録』に収録された「東郷外相口述」に記されている。

長崎に人類史上2発目の原爆が落とされたのは、そんな議論の最中である。

ときに8月9日午前11時2分。長崎市街は一瞬にして火の海と化し、約24万人の市民のうち7万3884人が死亡、7万4909人が負傷した。

だが、原爆投下の一報が伝えられても、軍部の姿勢は変わらなかった。

会議は結局、ポツダム宣言の受諾には国体護持のほか3条件をつけるという、軍部側の主張で押し切られた。

× × ×

この方針に驚愕したのは、外務省である。

次官の松本俊一は会議が終わるのも待ちきれず、休憩で室外に出てきた東郷をつかまえて様子を聞くと、真っ青になって言った。

 「大臣、あなたはそれをきかれたのですか」

東郷が、弱々しく首を振る。松本はくってかかった。

「そんな条件を付けたら絶対に話はこわれて仕舞います。何とか食い止めて下さい」

武装解除などの条件を連合国がはねつけるのは目に見えている。

戦争被害が一分一秒の単位で急拡大する中、最少条件によるポツダム宣言の即時受諾しか選択肢のないことは、東郷にも痛いほど分かっていた。

ただ、最高戦争指導会議の方針は、閣議を経なければ正式決定とはならない。

東郷は、直後に開かれる臨時閣議で巻き返しをはかることに、すべてをかけた--。

(社会部編集委員 川瀬弘至 毎週土曜、日曜に掲載)

最高戦争指導会議: 政府と軍部のトップが連絡調整を強化し、一元的な戦争指導を行うための会議。

日中戦争が勃発した昭和12年、近衛文麿内閣のもとで発足した大本営政府連絡会議を前身とし、先の大戦終盤の19年8月、最高戦争指導会議と改称された。

構成員は首相、外相、陸海両相、陸海両総長で、戦争指導の根本方針を策定。

ただし公式の決定機関ではなく、最終的には閣議決定などが必要だった。

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