第241回 晩年(1) 「過去」を持ち出した中国最高実力者

昭和天皇の87年

「過去」を持ち出した中国最高実力者 天皇はしなやかに対応した

第241回 晩年(1)

木曽檜(ひのき)でつくられ、昭和43年に落成した皇居の正殿「竹の間」-。

天皇が外国元首らと会見する際に使われる、気品にあふれた一室だ。

昭和53年10月23日、この竹の間に、ときの福田赳夫内閣が細心の注意を払う公賓が招かれた。

中華人民共和国の国務院副総理、鄧小平である。

日中の国交が正常化したのは6年前の昭和47年9月。日本はそれまで台湾の中華民国を承認してきたが、佐藤栄作の後に首相となった田中角栄が訪中し、国務院総理の周恩来と共同声明を発表。

日本が中華人民共和国を中国唯一の合法政府であると承認するかわりに、中国は日本に対する戦争賠償請求を放棄することで合意した(※1)。

中国側はこのとき、訪中した田中を微に入り細に入り歓待したとされる。

宿泊する迎賓館に田中の好物、木村屋のあんパンが用意されていたことはよく知られた話だ。

中国は当時、ソ連との国境紛争や文化大革命で国内が疲弊しており、経済力のある日本と、何としても手を結びたかったのである。

 ただ、共同声明に盛り込まれた平和友好条約の締結交渉は長引き、ようやく調印されたのは昭和53年のこと。その批准書交換式に立ち会うため、中国首脳として初めて来日したのが鄧小平だった(※2)。

× × ×

竹の間を訪れたトウを、昭和天皇が笑顔で迎える。

その際、トウは言った。

「今度の条約は想像以上に大変意義深いものです。

過ぎ去ったものは過去のものとして、前向きに今後、両国の平和関係を建設したいと思います」

同席した式部官長、湯川盛夫はひやりとした。

日中関係当局による事前の打ち合わせで、会見はあいさつ程度にとどめ、「過去」には触れないことになっていたからだ。

意図的かどうかは別として、トウはそれを破った。

だが、昭和天皇はしなやかに対応する。

「昭和天皇実録」によれば《(トウ)副総理に対し、両国の長い歴史の間には一時不幸なできごとがあったが、今後は両国の親善を進めて欲しい旨を仰せになる》(55巻95頁)

両国国民の複雑な感情に配慮し、禍根を残さない発言といえよう。

トウは、「今のお言葉には感動致しました」と脱帽した。

× × ×

ところが、事実は逆だったとする憶測がのちに流布されるようになる。

トウではなく、昭和天皇が最初に「わが国はお国に対して、数々の不都合なことをして迷惑をかけ、心から遺憾に思います。ひとえに私の責任です」と話しかけた-というのだ(※3)。

結論を言えば、昭和天皇が関係当局の方針から逸脱してスタンドプレーに走ることは、まずあり得ない。

「昭和天皇実録」にも全く書かれていない。

こうした憶測がいまも語られる背景には、戦後に蔓延した自虐史観がある。

先の大戦をめぐり昭和天皇も“謝罪”したとして、「侵略戦争」だと印象づける狙いもあるのだろう。

「過去」について、昭和天皇から何らかの発言を引き出そうとする動きは、その後も繰り返される。

昭和59年9月、韓国大統領として初めて全斗煥が来日したときも、韓国政府は日本側に、過去の朝鮮半島統治に対する昭和天皇の反省表明が「大前提」だと要求。

日本側を当惑させた。

9月6日、全を招いての宮中晩餐会で、昭和天皇は政府が作成した案に基づき、こうあいさつした。

「今世紀の一時期において、両国の間に不幸な過去が存したことは誠に遺憾であり、再び繰り返されてはならないと思います」--。

(『昭和天皇実録』取材班キャップ 川瀬弘至 毎週土曜、日曜掲載)

(※1) 日中共同声明に台湾は猛反発し、国交断絶を宣言した

(※2) 毛沢東と周恩来は1976(昭和51)年に死去し、当時はトウ小平が事実上の最高実力者だった

(※3) この憶測の出所は侍従長の入江相政だが、入江は昭和53年10月23日の日記に「竹の間で『不幸な時代もありましたが』と御発言」と書きながら、6年後の59年の年末所感に

「トウ小平氏の時に、陛下が全く不意に『長い間御迷惑をかけました』と仰有り……」と記しており、後年になって脚色したとみられる

【参考・引用文献】

〇岩見隆夫著「陛下の御質問」(毎日新聞社)

〇入江為年監修「入江相政日記」5巻(朝日新聞社)

〇加瀬英明編「宮中晩餐会 お言葉と答辞」(日本教文社)

〇宮内庁編「昭和天皇実録」55巻

〇平成27年3月31日の産経新聞

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