第242回 晩年(2) 国防めぐる天皇発言の波紋 「もう張りぼてにでも…..」

昭和天皇の87年

国防めぐる天皇発言の波紋 「もう張りぼてにでも…」

第242回 晩年(2)

日本国憲法により、政治の表舞台からは遠ざかった昭和天皇だが、官僚らの進講や閣僚らの内奏を受け、晩年になっても国内外の情勢に明るかった。

 昭和55年1月14日、昭和天皇は《侍従職御用掛天羽民雄(外務省情報文化局長)より国際情勢についての定例進講をお聴きになる。

以後、この年の定例進講は、皇居あるいは那須御用邸において、月に一、二回の割合で計二十回行われる。

進講内容は、アフガニスタン内戦へのソビエト連邦介入問題、オリンピックモスクワ大会への日本不参加、イラン・イラク戦争などに及ぶ》(昭和天皇実録56巻5~6頁)

 記憶力に優れた昭和天皇の、分析力や直感力は鋭い。

アフガン内戦を進講した天羽に「ソ連は結局(アフガンを)とってしまうハラなんだろう」と話し、その意図を見抜いている。

1982(昭和57)年のフォークランド紛争でも、当時の外務省情報文化局長に「(英首相の)サッチャーは軍艦をだすか」と尋ね、早くから軍事衝突を予見していた(※1)。

× × ×

 晩年の昭和天皇は、とりわけ戦争と平和の問題に強い関心を抱いていたとされる。

立憲君主として、開戦に至る経緯と敗戦の実情、復興への道のりをつぶさに見てきただけに、この時代の誰よりも先が読めていたのだろう。

 閣僚らの内奏でも、昭和天皇は質問の形でさまざまな示唆やアドバイスを与えている。

例えば昭和51年、日本は葛藤の末に核拡散防止条約を批准したが、荒れる国会審議を乗り切った衆院議長の前尾繁三郎は、「国会審議の奏上のたびに、陛下の『核防条約承認』のお気持ちが高まっているのが伝わってきたので、心苦しく申し訳ないと思っていた。

だから、自分が衆議院議長在職中に、なんとしても成し遂げなければと心に誓った」と回想している。

 だが、昭和天皇のアドバイスも、閣僚らがうっかり外部に漏らすと、思わぬ波紋を呼ぶことになる。

 昭和48年5月、田中角栄内閣の防衛庁長官、増原恵吉が参内したときのことだ。

昭和天皇は言った。

 「防衛問題は難しいだろうが、国の守りは大事なので、旧軍の悪いところは真似せず、良いところを取り入れてしっかりやってほしい」

 増原は、よほど感激したのだろう。記者団に内奏内容を明らかにし、「(防衛関連法案の)審議を前に勇気づけられた」と話してしまった。

 うかつだ。たちまち野党から「天皇の政治利用だ」とする猛批判が上がり、増原は辞任に追い込まれた。

 騒動を知った昭和天皇は、こう嘆いたという。

 「もう張りぼてにでもならなければ」(※2)

× × ×

 一方、公務など「表」の活動とは異なり、「奥」の生活、すなわち昭和天皇のプライベートな趣味趣向は、戦前からほとんど変わらなかったようだ。

 昭和57年5月16日、昭和天皇は《大相撲五月場所八日目を御覧のため、午後三時四十八分御出門、蔵前国技館に行幸になる。

御着後、御休所において、財団法人日本相撲協会理事長春日野清隆(元横綱栃錦)の拝謁をお受けになる。

(中略)御観覧席において、春日野理事長の説明により幕内力士土俵入りから弓取式まで御覧になる》(昭和天皇実録58巻40頁)

 大の相撲ファンで知られる昭和天皇だが、戦後に初めて蔵前国技館で大相撲を観戦したのは昭和30年の五月場所である。

戦争の時代と占領期には、とても観戦できる状況ではなかった。

それだけに喜びは大きく、こう詠んでいる。

 久しくも 見ざりし相撲 ひとびとと 手をたたきつつ 見るがたのしさ

 その後はほぼ年1回、55年からは年2回、主に五月場所と九月場所を観戦するのが恒例となった。

 随行した侍医の杉村昌雄によれば、昭和天皇は国技館2階の貴賓席につくと、まず取組表をみる。

観戦中は星取表を丹念につけ、「一番一番、お身体をのり出されるようにして観戦なさる」。

「小さな力士が、悪戦苦闘の末、大きな相手を打ち負かしたりすると、ことのほか、およろこび」-。

 応援する力士もいたようだが、それは側近にも話さない。

どこかで漏れて噂になれば、その力士はもちろん相手の力士も意識し、本気の勝負がしにくくなるからだろう(※3)。

 ふだんはテレビで相撲観戦だ。

ただしスイッチをつけるのは公務が終わる午後5時の少し前から。国民が働いている間は遠慮していたという(※4)。

× × ×

 相撲以外のテレビでは、ニュース番組をよくみた。

ほかにも自分でチャンネルを回し、さまざまな番組をみていたようである(※5)。

 昭和50年10月31日に行われた公式会見で、記者が聞いた。

「どのような番組をご覧になりますか」

 昭和天皇は答える。

「放送会社の(視聴率)競争がはなはだ激しいため、いまどういう番組を見ているかということについては答えられません」

 さらりとかわし、会場は笑いに包まれた。

 なお、侍医の杉村によれば「植物の生態やら、動物の生態やらの番組は、これはもうたいへんお好きで、よくごらんになっていらっしゃる」

 一方、「お色気のシーン」はNGだったとか。

「そうしたシーンが出てくると、チャンネルをすぐにお変えになってしまう」

 つねに国民とともにありたいと思う昭和天皇だが、性描写などが過激化していく時代の風潮には、ついていけなかったのだろう--。

(『昭和天皇実録』取材班キャップ 川瀬弘至 毎週土曜、日曜掲載)

(※1)「サッチャーは軍艦をだすか」という昭和天皇の質問に、外務省情報文化局長の橋本恕は「そのようなことは絶対にありません」と答えたが、数日後に英艦隊の出動命令が出された。

橋本は「もう予測的なことは陛下の前では言わない」と冷や汗をかいたという

(※2) 昭和天皇の自衛隊に寄せる思いは深かったようで、昭和48年に主要幹部が参内した際には、「自衛隊の各員には、平素からその職務に精励し、ご苦労に思います。

重大な職責を自覚し、国家のためますます職務に精励するよう望みます」との言葉をかけている。

これに対し当時の統合幕僚会議議長、衣笠駿雄は、「決意を新たにしてわが国の平和と独立を守るため全力をつくし、もって聖旨にそい奉る覚悟です」と奉答した

(※3) 昭和30年代に大関として活躍した大内山は、その四股名(しこな)が皇居を意味するものだったことから、ひそかに応援していたともいわれる

(※4) 侍医の杉村昌雄によれば、相撲観戦だけは別で、公務を一時中断してテレビをみることもあったという

(※5) 侍従長の入江相政によれば、新聞も精読し、「(主要5紙などの)外国電報をはじめとして政治面に力点をおいて御覧になっているが、ゴシップ欄などまで目を通しておいでになり、私の知らないようなことまでよく読んでおいでに」なったという。

【参考・引用文献】

〇宮内庁編「昭和天皇実録」42、56、58巻

〇岩見隆夫著「陛下の御質問」(毎日新聞社)

〇平野貞夫著「昭和天皇の『極秘指令』」(講談社)

〇高橋紘著「人間 昭和天皇〈下〉」(講談社)

〇入江為年監修「入江相政日記」5巻(朝日新聞社)

〇入江相政著「天皇さまの還暦」(朝日新聞社)

〇杉村昌雄著「天皇さまお脈拝見」(新潮社)

〇昭和50年11月1日のサンケイ新聞

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