第244回 闘病 「何としても沖縄に…..」大量に吐血、列島に衝撃走る

昭和天皇の87年

「何としても沖縄に…」 大量の吐血、列島に衝撃走る

 

第244回 闘病

 昭和62年4月21日、86歳の誕生日を前に行われた宮内記者会との会見で、昭和天皇は言った。

 「念願の沖縄訪問が実現することになれば、戦没者の霊を慰め、永年県民が味わった苦労をねぎらいたいと思っています。

これからも県民が力を合わせて困難を乗り越え、県の発展と県民の幸福のために努めてくれるように励ましたいと思います」

 同年10月に沖縄で開催される国民体育大会(海邦国体)に、昭和天皇は臨席することになっていた。

本土復帰から15年余り、ようやく実現する沖縄訪問に、胸を熱くしていたに違いない。

 だが、その8日後、身体に異変が起きる。

 4月29日《内閣総理大臣等をお招きになり、天皇誕生日宴会の儀を行われる。

(中略)宴会の儀は滞りなく進行するも、終盤に至り御気分がすぐれなくなり、嘔吐(おうと)される》

(昭和天皇実録59巻149頁)

 当初は、一時的な体調不良とみられていた。

侍医の診察を受け、翌日は静養したものの、5月1日からは通常通りの公務に復帰する。

しかし、病魔はじわりと、昭和天皇の身体をむしばんでいた。

 7月19日《(滞在中の栃木県・那須御用邸で)植物御調査よりの帰途、御車寄付近において、胸に軽度の不快を感じられ、倒れかかられる》(同巻179頁)

 8月2日《胸がつかえるような御不快を訴えられ、侍医の診察を受けられる》(同巻181頁)

 以後、たびたび体調不良に陥る。

9月13日に胃部のエックス線検査を行ったところ、十二指腸から小腸にかけて通過障害があることが分かり、同月22日、宮内庁病院でバイパス手術を受けた。

術後の経過は良好だったが、切除した膵臓(すいぞう)の組織を病理検査した結果、深刻な状態であることが判明する。

 原発部位不明の悪性腫瘍-。がんだった(※1)。

 昭和天皇には告知されなかった。

しかし、沖縄訪問は中止せざるをえない。昭和天皇は病床で詠んだ。

 思はざる 病となりぬ 沖縄を たずねて果さむ つとめありしを

 10月7日に退院した昭和天皇は、健康の回復に努める。

沖縄に行きたい、県民を励ましたい-という思いが、心身を支えていたのだろう。

× × ×

 翌63年8月13日、那須御用邸で静養していた昭和天皇はヘリコプターで帰京し、15日の全国戦没者追悼式に臨席した。

それだけは、何としても果たしたかったのだ。

だが、真夏の公務は、弱っていた体力を一気に消耗させることになる。

 9月19日《御夕餐後、御床にてお休みのところ、午後十時前、大量の吐血をされる-》(同60巻71頁)

 マスコミ各社の皇室担当記者が「異変」を察知したのは、同日の深夜から翌日の未明にかけてだ。

 19日午後11時すぎ、侍医長の高木顕が妻の運転する車で慌ただしく皇居に入るのを、記者は見逃さなかった。

侍従長、女官長、宮内庁総務課長らも相次いで登庁する。

20日午前0時ごろには輸血車が皇居の桔梗門をくぐり、同2時20分すぎには、パトカーに先導された皇太子(上皇さま)と皇太子妃(上皇后さま)の車が半蔵門を走り抜けた。

 各社のデスクが社会部記者に総動員をかける。

記者は宮内庁幹部らの自宅にハイヤーを飛ばし、情報をかき集めた。

長官の藤森昭一をはじめ多くは「格段の連絡はない」と首を振ったが、その表情や仕草から、記者は「異変」を探りあてていった(※2)。

 20日、新聞各紙に特大の見出しが並ぶ。

 「天皇陛下 ご容体急変か」(朝日新聞朝刊)、「侍従長、侍医長ら深夜に緊急召集」(産経新聞朝刊)、「吐血、重い黄だん」(毎日新聞夕刊)、「天皇陛下ご重体」(読売新聞夕刊)…

 宮内庁が「異変」を認め、記者会見したのは20日午前3時である。

 「天皇陛下は、昨夜10時前に吐血遊ばされたので、輸血などの緊急治療を行った。

(その結果)落ち着かれた状態であられる」

 抑制された発表だが、内情は深刻だった。

19日夜の吐血量は約600ccに及び、最高血圧は一時90台に下がった。

20日だけで計約1200ccの輸血が行われ、当初は予断を許さない状況だった。

× × ×

 列島に衝撃が走ったのは、言うまでもない。

街角のテレビに出勤途中のサラリーマンらが群がり、多くの社寺で平癒祈願が行われた。

宮内庁が22日、坂下門にお見舞いの記帳所を設置したところ、皇居前広場は連日長蛇の列となり、1週間で42万2000人余が記帳した(※3)。

 大量の輸血と点滴により、危険な状態を脱したのは25日である。

意識もはっきりした昭和天皇は、記帳所などの様子を聞き、病床で言った。

 「皆が心配してくれてありがとう」

 だが、この言葉が伝えられても、国民の動揺はおさまらない。

全国各地で秋祭りなどの行事を中止する動きが相次ぎ、自粛ムードが急速に拡大していく。

一方、それを批判する左派勢力もあり、ことに共産党は「天皇は侵略戦争と人権抑圧の責任者」「自粛などは憲法の主権在民の大原則に反する」などと、激烈な批判キャンペーンを展開した。

 列島を包み込む不安と動揺。昭和の終わりが、ゆっくりと近づいていた--。

(社会部編集委員 川瀬弘至 毎週土曜、日曜掲載 来週は最終回です)

(※1) 最終的に十二指腸乳頭周囲腫瘍とされた。

ただ、昭和天皇に告知しない方針だったため、当時は公表されなかった

(※2) 19日午後11時半すぎに日本テレビが「天皇陛下の容体急変」とニュースで伝えたのが、第一報とされる

(※3) 各地の御用邸や御陵などでも記帳を受けつけ、最終的な記帳者総数は約233万人に上った。

沖縄県知事の西銘順治や社会党委員長の土井たか子もいち早く記帳している

【参考・引用文献】

〇昭和62年4月29日のサンケイ新聞、朝日新聞、63年9月20日の産経新聞、朝日新聞、毎日新聞、読売新聞

〇宮内庁編「昭和天皇実録」59、60巻

〇葛谷茂著「ドキュメント昭和の終焉 天皇崩御」(文芸春秋)

〇治安問題研究会著「検証・日本共産党」(月刊「治安フォーラム」平成16年11月号収録)

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